アートと人を繋ぐファッションブランド
- 平井 春香さん/デザイナー
- 1999年生まれ、大阪府出身。大阪文化服装学院 スーパーデザイナー学科卒業。まじめにふざけるファンタジーをテーマに、大胆なアートを取り入れたオリジナルファッションブランド・HARUKA HIRAIを展開。Aimerの『残響散歌』MVや水曜日のカンパネラのボーカル・詩羽などに衣装を提供している。 https://www.harukahirai-offcial.com/
幼少期から感じていたデザイナーへの道
小学生の頃、服を買いに行っても着たい服が見つからず、母にデザインを伝えて作ってもらっていました。家の家具が気に入らなくなると、拙い設計図を描いて父と一緒に作っていました。今思えば、服に限らずこだわりと意志が強い子どもだったなと思います。
また、幼い頃から絵を描くことが好きでした。アニメを観ていなかったからなのか、イラストを描くことは少なく、頭に浮かぶ幾何学模様を描いたり、塗り重なる色を楽しんでいました。今でもお絵描きを楽しむことが時々あります。
3歳から始めたモダンバレエでは憧れのお姉さんの体の動きをすごく見ていました。人の体の動きが面白いと感じていたのです。
母が洋裁をしていたので、ミシンを踏める環境があり、小学生の頃からリュックサックや服を作っていました。ミシンにかかっている糸で布と布が繋がる感覚が楽しくて、身の回りにある物がこのミシンを通って完成しているのだと思うと、「なんでも作れるやん!」と思った記憶があります。
幼少期から自分の想像力で何かを作ってみることが日常だったので、なんとなく自分はデザイナーになるんだと小学生の頃には確信していました。
デザインを学びながら悩んだ時期
専門学校はネットで「世界に通用する 服飾専門学校」と検索して一番上に出た、大阪文化服装学院 スーパーデザイナー学科に入学しました。
企画、デザイン、パターン、縫製、撮影、販売など、全てを学べる学科でした。学生の間にマイ・ブランドを立ち上げるカリキュラムがあり、ここがHARUKA HIRAIの始まりです。
ちょうどコロナ流行と同時期だったブランドの立ち上げ、SDGs、サステナブル、アパレル業の産業廃棄物の言葉が飛び交う環境に、正直新たな服を作る気力はすっかりなくなりました。緊急事態宣言中には命懸けで人のために働く人がいる中で、私は自分の作りたいものが、卒業後にはゴミになってしまうことがとても嫌になり悩みました。
立ち直ったきっかけは、理学療法士になろうと頑張っている友達が「長く入院している患者さんは、かわいいパジャマを着ることで元気がもらえる」「キラキラした世界は見る人が元気をもらえる」と教えてくれたことでした。
個性を生かしたファッションブランド
自分でブランドを立ち上げるなら、私だからできることをしたい、少しでも笑顔になるような、一息つけちゃうような空間を作りたいと思い、私のブランドを目にした全ての人の好奇心をくすぐるデザインになるよう、真剣にふざけたデザインを追求しようと決めました。
身近に身体障害者の方がいる中で育ったことがきっかけで、人に優しい曲線、ユニークなシルエット、一つのアイテムに詰め込まれた機能性、可能性にワクワクするユニバーサルデザインに興味がありました。
人は個性的なのが当たり前で、私はそれぞれの違い、個性が好きです。
今の時代は人種だとか、国籍だとかジェンダーだとかで大きく括(くく)ろうとしています。だいぶマシになってきましたが、そこにコンプレックスを抱いてる人が多いと感じます。日本人の若者は特に外見的コンプレックスを持っている人が多く、そのせいで挑戦することを諦める人が多いという記事を見ました。
私はいわゆるモデル体型でも、女優さんのような顔でもないけれど、これまでに外見がコンプレックスで挑戦しなかったということがなかったので、ファッションブランドだけど外見的コンプレックスを忘れて、ただ好奇心をくすぐるコレクションを展開しようと考えました。
今の私は自分と隣にいる人の顔や好み、外見、バックボーンが全く違っていることが面白いと感じているので、このポジティブな感情をアートと人を繋ぐファッションブランドとしてコレクション展開しています。
現在とこれから
卒業後も、学生時代の作品を生かして、展示やアートパレード、衣装リースなどのブランド活動をしています。今後は無理に新しいコレクションを生み出すことはありません。表現したい衝動に駆られた時に皆さんをワクワクさせます。
ブランド以外にも挑戦したいことはたくさんあるので、生涯かけてHARUKA HIRAIとして表現できればそれで良いと思っています。
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