連載コーナー
本音のエッセイ

2024年10月掲載

歴史で「もしも」は面白い…

近藤 圭二さん/豊島区国際アート・カルチャー特命大使/SDGs特命大使

近藤 圭二さん/豊島区国際アート・カルチャー特命大使/SDGs特命大使
幕末や戊辰戦争に造詣が深い。渋谷区の生涯学習講座やよみうりカルチャーなどで、講座や散策会などを担当。幕末史研究会幹事、池袋モンパルナス回遊美術館実行委員会や廣度院練塀保存委員会などに所属。
 

立見尚文が日露戦争の最中、戊辰戦争の自慢話をしていた薩摩や長州出身の士官たちに向かって、「お前はあの時、私の目の前から逃げ出した」とからかったため、士官たちは、何も言い返すことができなかったという逸話が伝わっている。

 

戊辰戦争で、西軍ともいわれる新政府軍と戦ったのは、旧幕府軍と、奥羽越列藩同盟に参加した諸藩、以上東軍だが、東軍の中では「佐幕派強い者番付」が作られ、桑名藩が筆頭に挙げられた。戊辰戦争での桑名藩では、雷神隊・致人隊・神風隊の3隊が戦い続けたが、雷神隊の隊長を務めたのが、立見尚文だった。

 

慶応4年(1867)閏4月27日、桑名藩の3隊を主力とする東軍の400名は、越後・柏崎近くの鯨波で、新政府軍の1000名以上の兵力と交戦したが、立見尚文の巧みな指揮によって、新政府軍を大いに苦しめた。日露戦争でも立見尚文は、黒溝台(こっこうだい)会戦で、日本軍を見事な勝利へと導いている。

 

 私には、もし、戊辰戦争で生き残っていたとしたら、その後、どんな活躍をしただろうと、非常に残念に思う漢がいる。それは、土方歳三だ。

 

土方歳三は、多摩で生まれ、後に京都に上って、当時は、天誅を名目などとした殺人事件が頻発していた京都の治安維持のために、新選組を結成した。その後は、新選組を率いて、池田屋事件などで、過激な浪士たちを制圧するなど、文字通り、身命を賭して、天皇陛下がおわす京都の平穏のために、戦い続けた。

 

戊辰戦争では、城をめぐる攻防がいくつかあり、長岡藩の河井継之助が、意表をついた作戦によって、新政府軍に奪われた長岡城を奪還したことは、小説にも書かれている。しかし、複数の城を落とした人は、いないのではないだろうか。土方歳三は、北関東の要衝である宇都宮城を落とし、蝦夷の松前城をも落としている。しかも、この2つの城を攻撃するために率いたのは、新選組が主体ではないということからも、作戦立案能力がすぐれていただけではなく、部下の人心の掌握に秀でていたことが、よくわかるのではないだろうか。

 

土方歳三といえば、京都での活躍が注目を浴びがちだが、戊辰戦争での戦いぶりに、もっと注目してもいいのではないだろうか。そして、戊辰戦争で生き残っていたとしたら、明治の陸軍で、どんな活躍を見せてくれたのだろうか。

(無断転載禁ず)

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