一子相伝のからくり人形「舌出三番叟(しただしさんばそう)」 ~長崎・三川内(みかわち)焼に宿る400年の技~
- 今村 ひとみさん/陶芸家、15代平戸悦山
- お問い合わせ先
嘉久房 - 平戸窯悦山
(工房はギャラリー併設)
〒859-3155
長崎県佐世保市三川内町692番地
https://sites.google.com/view/hirado-etsuzan/
からくり人形「舌出三番叟」
長崎県佐世保市、ハウステンボス近くの山あいの三川内皿山で作られる三川内焼は、かつては平戸藩主が献上品などを作らせるために開いた窯で400年以上の歴史を持つ。今では窯元が10数軒にまで減った小さな焼きものの里に、私が15代平戸悦山となる嘉久房(かくふさ)はある。この窯で、江戸時代から守ってきたのが「舌出三番叟人形」というからくり人形。製法は一子相伝で、現在それを知るのは当代14代目の父・今村均と私のみだ。
安土桃山時代の慶長2年(1597)、豊臣秀吉の朝鮮出兵に同行した平戸藩の初代藩主松浦鎮信(まつらしげのぶ)が日本に連れて帰った陶工の子孫によって、舌出三番叟人形は作られた。連れてこられた陶工の巨関(こせき)とその息子三之丞らは、藩主より三川内焼の特徴となった白磁を作るように命じられたが、良い原料がなかなか見つからず、何度か窯の場所を変えながら探査と製作に没頭した。 寛文2年(1662)、天草砥石との出合いによりついに悲願は成就し、三之丞の息子、弥次兵衛によって、純白の白磁を作ることに成功した。弥次兵衛は平戸藩主から功績が認められ、名字帯刀を許され「如猿(じょえん)」の名を賜る。名前の由来は色黒で顔が猿に似ていたからで「猿の如し」というわけである。その弥次兵衛が作ったのが舌出三番叟人形なのである。「サルに似ているなんて冗談じゃない。あっかんべー」と名前が面白くない気持ちを表したようである。 このからくり人形は、磁器ではあるが、底土と呼ばれる再利用の土を活用しており、いわば手遊びで主たる製作物ではない。猿が舞事の三番叟の衣装に身を包み、くるくる首を回し、振ればペロリと舌を出す。ドイツのマイセン磁器のパゴダ人形と異なり、頭、舌、そして胴体の3つのパーツを組み合わせて焼成するため、くっついたり、抜けたりすることも多く、作るには高い技術が必要だ。以前はそばに登り窯があり、「ものはら」と呼ばれる失敗作を捨てる場所があった。少し掘れば、今でも昔の人形が出てくるが、体は残っていても例外なく頭部は潰されている。仕組みが外部に漏れないように先祖がいかに気をつかっていたのか分かる。 舌出三番叟人形は、江戸時代には長崎・出島を根拠地としたオランダ商人の関心を引き、大量に輸出された。また、1867年のパリ万博では佐賀藩によって出品され、フランス皇帝ナポレオン3世の皇后もいたく気に入り、買い求めたという逸話が残っている。 三川内焼は、その源を朝鮮半島の韓国・慶尚南道熊川(こもがい)とし、私の祖先のように平戸から、そしてもう一つ、唐津(佐賀県)からの二つの流れがある。平戸藩は、寛永14年(1637)に御用窯を開窯し、慶安3年(1650)には主力陶工たちをすべて三川内皿山に移した。寛政年間(1789~1800年)頃までは、献上品として禁制の非売品であり、その製法は門外不出。平賀源内は、『陶器工夫書』(1771年著)の中で、もし三川内焼が貿易で取引されるようになったら、中国人やオランダ人も大いに欲するだろうと述べている。 三川内焼は、きめ細かい地肌とその白磁に映える繊細優美な染め付け、捻り細工や透かし彫りなどの細工物、それを高温で焼成した珠のような輝きが特徴なのである。 物心がついたころから、父の窯で土とふれあって育った。それでもようやく1人で初めて舌出三番叟人形を作れたのは2015年のことだ。失敗も多く、年間で出来上がる数は30体ほどがやっと。伝統を継承しつつ、作り始めた頃とは顔を変え、少しずつ自分の色を出している。 先祖代々守られてきたこの小さな人形を継承していきたい。舌出三番叟人形作りが、土の性質を知り、細やかな技術を磨くのに役に立つ。身に付けた技術をさらに磨きながら、白磁の美しさを生かした作品をこれからも作っていきたい。舌出三番叟人形の誕生と逸話
三川内焼の魅力
舌出三番叟人形とこれから
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