明治伊万里との出逢い
- 蒲地 孝典さん/東西古今 ギャラリー花伝 オーナー
- お問い合わせ先
東西古今 ギャラリー花伝
佐賀県西松浦郡有田町中樽3-8-22
0955-43-3183
https://www.gallery-kaden.com/
インテリアとしての有田焼
江戸時代の有田焼は用の美を誇ったが、明治になると輸出品は装飾品、言い換えれば美術品の製作に心血が注がれた。国内市場には出回るものは少なかった。評価が遅れた理由はここにある。
考えてみれば、日本の家屋の障子と襖と床の間に美術品の居場所は少ない。壁の多い洋間には空間のアクセントにオブジェや絵画が必要になる。翻って、現代の日本の家屋は洋風化しているので、ヨーロッパの宮殿のチャイナキャビネットのようにとは言わないまでも、壁が増えた分、絵画のみならず花瓶やお皿をインテリアとして是非活用してもらいたいものである。
明治伊万里との出逢い
もう40年も前のことである。明治時代の有田焼の展覧会が佐賀県立九州陶磁文化館で開催され、江戸時代の有田焼やもちろん現代とも違う精巧で多彩な色使い、絵画を見るような衝撃的な出逢いがあった。
私は有田に生まれ育ち、焼物に囲まれた家は商家で、ハレの日の器から普段使いまで陶磁器産地ならではの暮らしぶりがあった。また、仕事柄、江戸期の名器も美術館や図録でそれなりの知識はあった。
出逢った明治の伊万里は後からの研究で詳細を知ったのだが、取り分け象徴的だった90㎝もある大皿は精磁会社製のものだった。明治26年、シカゴで開催された万国博覧会に出品された姉妹品であり、水鳥が池に飛び込む様が水辺の華やかな草花と共に活写されていた。家業の一員として仕事をしていたが、一生の仕事にするのなら、このような有田焼を取り扱ってみたかった。そして、私はもっと知りたいと思いを募らせていった。その後、明治伊万里の主要な海外市場であったアメリカに行けば、未だ見知らぬ品々に遭遇するのではなかろうかと旅立った。
ニューイングランド地方の探索
先述した精磁会社では、洋食器開発のためにアメリカ東海岸のボストンにあった有力な陶磁器問屋のフレンチ商会の次男が有田を来訪し、指導を受けていた。その後念願の洋食器が完成すると、この問屋によって全米各地で販売されたという。
ただ、この文献による事実だけで無謀とも思われる旅の第一歩はボストンから始まった。ルートノースワンを北上してニューキャッスルという小さな町まで、街道沿いには星条旗の小旗を掲げたアンティークのショップが至る所にあった。ほとんどはジャンクものでお目当てのものにはなかなか出逢えなかったが、道中の景色の美しさが不安な心を癒やしてくれた。
大西洋を望む海岸はリアス式で海の色はインクを流したような濃紺であり、松林が広がっていた。また、空腹を満たしたロブスターやオイスター、さらに絶品のクラムチャウダーに東海岸ならではの食文化に触れた思いがした。
南下して、ルートの先はケープコッドという東海岸有数のリゾート地であり、メイフラワー号に乗り込んだ最初のアメリカ大陸入植者が降り立ったプリマスもここにある。ケネディの別荘もここにあった。
この一帯では明治伊万里は探せなかったが、思いもよらぬ副産物があった。藍鍋島の七寸皿を手に入れた。鍋島は輸出されていないので、戦後アメリカの進駐軍による流出ではなかろうか。いずれにしてもまさに私の無謀な好奇心に天の配剤があったと歓喜した。
春秋を表した珈琲カップ
ボストン郊外にマーブルヘッドという別荘地があり、1軒の変哲もないスーベニアショップに立ち寄った。大きなカゴに無造作に入れてある和風のコーヒーカップが目に留まり、よく見るとカップや皿の高台に深川と記され、蘭のマークが添えられているではないか。明治10年代の製品であり、手の込んだ図案は全て手描きである。桜や紅葉に松が、下地のブルーの染付(そめつけ)と上絵(うわえ)の華やかな色使いで描かれている。紛れもなく明治の有田焼の特徴を表していた。
こんな豪華な珈琲カップを見たのは初めてであった。
この珈琲カップは後に転写技術を駆使して復刻し、さらにこの図案を応用してたくさんのアイテムに展開していった。私が商品開発した中でも大ヒットした商品になった。
アメリカ東海岸の明治伊万里探訪の旅は有田焼を生業(なりわい)にする大きなモチベーションになった。
『幻の明治伊万里 悲劇の精磁会社』の出版
私は前会社を離れ独立した。
有田の歴史に輝かしい1ページを遺している明治伊万里の収集はしたものの、背景や特徴について自分が肌で感じた明治伊万里に寄せる思いを綴りたいという衝動に駆り立てられ、一書に表すことを決意した。取り分け、明治伊万里の中でも国策の中で翻弄(ほんろう)された有田の名陶工の生き方と遺した製品のことを少しでも後世に伝えたかったのである。
インパクトのある様式美を打ち立てた精磁会社は道半ばで消滅したが、物作りにおいて伝統を重んじ、新たな創作を加えて海外輸出に命を懸けた物語に。心を震わせるのは私のみならず、いるはずだとの思いで書き綴った。
不易流行
由緒あり、歴史ある有田焼に暗雲が垂れ込めている。私は、伝統は受け継がれなければならないと思う。基本の伝統的な形は遺さねばならない。その上での個性的な創作は破格の物として珍重すべしである。その埒外(らちがい)は「形無し」と言わざるを得ない。どこで作ってもいいようなものは長続きしない。
精磁会社を率いた深海墨之助、竹治兄弟の厳父が遺した言葉を書き記し、擱筆(かくひつ)する。
「器物は人の思想を写すものなり 名器を作らんとすれば まず自身の高尚の思想を養うべし」。
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