連載コーナー
私の体験

2020年2月掲載

人生を変えた日・タイの地獄寺の魅力

椋橋 彩香さん/地獄寺研究家

椋橋 彩香さん/地獄寺研究家
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地獄寺との出合い

今から6年前、私は初めてタイを訪れた。友人と王道の観光地、タイ料理、買い物を満喫するというプランであったが、そこにどうしても組み込みたい場所があった。

聞くところによると、タイには「地獄」があるらしい。地獄といえば、釜ゆでにされ、舌を抜かれ、熱くて苦しい死後の世界だ。そんな世界を生きたまま体験することができるというその場所は「地獄寺」とよばれ、カラフルで、キッチュで、グロテスクな立体像が乱立するなんとも奇妙な光景が広がっているのだという。

タイに着いて数日後、私たちは並々ならぬ期待を胸に地獄寺へと出発した。しかしながら、その道のりは想像以上に大変なものだった。目的地の地獄寺は首都バンコクではなく、そこから100キロメートル以上離れたところにある。タイ語はまったく分からない。慣れない交通機関に乗り込み、しばらくしてある街で降ろされた。マップを確認するとどうやら目的地周辺には着いたようだが、そこから先、どうやって地獄寺へ向かえばいいか見当もつかなかった。つけておくべきだった。

とにかくお腹が空いていたので、何か食べる場所がないか探した。すると偶然にも近くにケンタッキーがあった。あまりにも不安だったので、見知っている店を見つけただけで安心した。このときほどケンタッキーの存在がありがたいと思ったことはない。

腹ごしらえを済ませ、さてどうしようかと思っていると、近くにバイクタクシーのおじさんたちがたむろしているのが目に入った。少し怖いと思ったが、行き方を尋ねることにした。タイ語で書かれた目的地のメモを見せると、なんと連れて行ってくれるという。見知らぬおじさんについて行っていいものか、しかもバイクには乗ったことがない。だが、ここまで来たらどうしても地獄寺へ行きたかった。不安に思いながらも、おじさんのバイクの後ろにまたがった。

かなりのスピードで(初めてバイクに乗ったのでそう感じただけかもしれない)、しばらく走ると、前方に金色の大仏が見えてきた。事前に見ていた写真と完全に一致。本当にたどり着くことができた。バイクの風を切りながら、ホッとしてヘルメットのなかで泣いていた。

そうしてたどり着いた地獄寺は、道中の苦労も相まって、大変魅力的な場所に映った。ネットや本で見たとおり、等身大より少し大きな立体像が並び、カラフルで、キッチュで、目を覆いたくなるほどグロテスクな光景が広がっていた。

本格的な地獄巡り

この時の体験が忘れられず、私は気づいたら大学院に進学していた。もちろん、タイの地獄寺を研究するためだ。この時すでに、地獄寺とよばれる場所はタイに何十カ所もあることが分かっていたが、体系的な先行研究があるわけではないので、自力で巡る必要があった。かくして、学生の特権である大型休暇を利用して「タイの地獄巡り」を敢行することになったのである。

初めて地獄寺を訪れて以降、本格的にタイ語の勉強をして、タイの文化を知ることで多少不安はなくなったが、それでもなお、地獄巡りというのは決して楽なものではなかった。どの地獄寺もいわゆるド田舎にあり、外国人が一人で行くような場所ではない。虫や野犬にも悩まされた。地獄寺にたどり着くだけでも一苦労であるが、そこで調査をするとなるとさらに一苦労である。住職や寺院関係者にアンケートを取ることが主な仕事だが、これがなかなか一筋縄ではいかなかった。国民の9割以上が仏教徒であるタイにおいて、僧侶の存在は非常に尊いものである。どのように話せば失礼がないか、研究の意図が伝わるか、つかむまでに時間がかかった。

だが、タイの人たちはみんな優しく、調査に協力してくれるだけでなく、ごはんを食べさせてくれたり、帰りの足がないときは送ってくれたり、後日心配して電話をくれたりした。そうした優しさと親切に助けられ、今までなんとか研究を続けられている。

地獄寺の魅力

数々の地獄寺を巡り調査していくなかで、タイの人たちにとって地獄寺という場所は、「悪いことをしたらこうなる、だから悪いことをしないようにしよう」と分かりやすく教える、教育目的の場所であることが分かってきた。地獄寺はその奇妙な様相から、日本ではずっと「珍スポット」「B級スポット」として認識されてきたが、どうやらタイの人たちは至って真面目にこれらを造形しているらしいことも分かってきた。

地獄寺の立体像は釜ゆでの罰を受けていたり、舌を抜かれていたりといかにも地獄の様相をあらわしているが、なかには薬物中毒や交通事故、環境破壊を戒めるような表現もみられる。一部の政治的主張を含んだ表現も看過できない。仏教が生活のなかで生きているタイでは、それに基づく地獄の思想も生きていて、その表現は常に現代社会を反映してアップデートされているのである。私はそういった認識の差や、それらを生み出した文化的背景、そしてなによりアップデートされ続ける地獄表現におもしろさを感じている。

タイの地獄寺を研究し始めて4年がたった。一昨年は夢だった本の出版も叶い、本格的に研究を進められる環境に身を置きつつある。初めて地獄寺を訪れた日には予想もできなかった人生を歩んでいるが、今となってもあの日のことは忘れられない。一つの体験が、その後の人生を方向付けてしまうことがあるのだと思うと恐ろしいような、感慨深いような、不思議な気持ちになる。

地獄寺に広がる魅力的な光景、そしてタイの人たちの底抜けの優しさと親切に加え、ボコボコの悪路をトゥクトゥクで突き進んだこと、野犬に追いかけられたこと、猿数十匹と対峙したこと、調査がうまくいかず涙をこぼしたこと、今となってはそうしたタイでの体験も「慣れ」となりつつある。だからこそ、たまにあの日のことを思い出して、いつまでも新鮮な気持ちで地獄を楽しめたらなと思う。

  • 初めて訪れた地獄寺、ワット・ムアン(タイ・アーントーン県)

    初めて訪れた地獄寺、ワット・ムアン(タイ・アーントーン県)

  • 地獄の責め苦を受ける亡者たち

    地獄の責め苦を受ける亡者たち

  • 罰を与える獄卒と生前に殺生をした亡者。頭部が殺生をした動物になっている

    罰を与える獄卒と生前に殺生をした亡者。頭部が殺生をした動物になっている

  • 薬物中毒による交通事故を戒める場面

    薬物中毒による交通事故を戒める場面

  • 『タイの地獄寺』(青弓社、2018年)書影

    『タイの地獄寺』(青弓社、2018年)書影

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