画家・佐々木榮松(えいしょう)を語り継ぐ
- 髙野 範子さん/佐々木榮松記念 釧路湿原美術館 理事長
- ■お問い合わせ先
佐々木榮松記念 釧路湿原美術館
〒085-0245 北海道釧路市阿寒町上阿寒23-38
TEL 0154-66-1117
http://shitsugenmuseum.sakura.ne.jp/
伏線
一人っ子だった私は「真面目に一生懸命に」という両親の教え、「かわいい子には旅をさせよ」という信条のもと、18歳で大学進学のため親元を離れた。
20代で結婚、2人の娘を出産。主人は教員で転勤が多く、中でも文部省派遣でアメリカのシカゴに赴任したのが私の運命を大きく変えた。33歳だった。
1984年4月にシカゴ日本語学校補習校の図書室で中島一華という女性に出会った。イリノイ州立病院の医師で茶道・華道をアメリカ人に教えていた。私はすぐに弟子入りし真剣に学び、励んだ。当時、領事館から日本文化紹介を依頼されていた中島先生は、500人の生徒の中からアシスタントとして私を抜てきしてくださった。アシスタントの条件は空気のような存在でいて気が利き、準備から実践、デモンストレーション、片付けなど、さまざまなことを必要とされた。実践力がつくのはもちろんのこと、デモンストレーションの場数を踏んでいるうちに、アート性とタレント性がある自分を発見した。個人的には食事の用意もし、中島先生ご夫妻を支えた。
宿命
さらなる運命の出会いは、縁も所縁もない夫の赴任地の北海道釧路。1994年4月9日、今は無きJR釧路駅構内にあった「釧路ステーション画廊」で画家・佐々木榮松と出会った。
名刺の裏にササッと私の顔をデッサンした。目鼻が無いので驚き、なぜかと尋ねた。「この方がより美しく想像できるんだよ」と佐々木先生は言った。
華道家を目指していた私は、照明や音楽などを駆使して空間の中の生け花を試みていた。タイトルをつけ、ストーリーを作り、見えないものも表現する独自の作風を考え発表していた。その話をすると「素晴らしい!あなたの創作の主張にしなさい。感性こそが一番だよ」と背中を押してくれた。お礼に、「線に色気あり、色に粋あり、人に情あり、すべてに余韻あり」と詠んで、四行詩を贈った。
その後、7年間のうちに、奥様が他界され一人ぼっちになった佐々木先生は私の夫、娘、孫、両親たちを含め大家族の長老になった。先生は釧路空襲で幼くして亡くした愛娘の令子さんの面影を、私、娘、孫に重ねながら、晩年10年間、家族のつながりを楽しまれた。
命の恩人
2003年12月21日早朝、携帯電話が鳴った。「苦しい、来てほしい。おしっこが一滴も出ない」。主人と駆けつけた。その日は、私の誕生日だった。
即入院、90歳の先生は、あらゆることがパニック状態であり、放っておくことはできなかった。
「先生を助けられるのは私しかいない!華道家を捨てて芸術家の先生を支えよう!」と決心した。53歳だった。
先生の法定代理人となり、日常生活のすべてを担った。また、専属画商として、個展の企画・開催をしながら経済的な面も支えた。
さらに最大の窮地が訪れる。2008年1月1日夜8時、先生からのSOS。駆けつけると「オレはもうダメかもしれない!」「水をくれ!」と言い、水を口に含んだ瞬間、意識を失った。
1週間の昏睡状態から奇跡の生還。朝、目覚めて「ノンちゃんだね、会いたかったよ」とむせび泣き「シベリアはきれいだった」「最期に描くべき絵を見た。構図も色も」。「それは何?」と私は聞いた。「湿原の曼陀羅(まんだら)だよ」と。あれも描く、これも描くといいながら歓喜に満ちていた。
その後、せん妄症状が2カ月続き、「死んでもいいから家に帰りたい」と言いだした。あまりの切望に要介護4で退院させざるを得なかった。人格を失った状態の先生を必死に看病して、最悪の状況を克服した。「あんたがいなかったら死んでたよ!ノンちゃんからもらった命だ!命の恩人だ」と言われた。快気祝いに、キャンバスと特注の額も用意した。「描くんだ、描くんだ」と言い続けたが、体力が落ちその想いは叶わなかった。
2011年3月3日、北海道立釧路芸術館で「たった三日半の展覧会」を開催。私から白寿のお祝いとして大作を展示し、先生に見せてあげたかった。車いすに乗せて会場にお連れした。先生は、涙を流し「オレの99年の画業は間違っていなかった。未来の人に観てもらいたい。美術館こそが作品展示にふさわしい」と断言した。そして、「最高のプレゼントをありがとう」と何度も何度も、死ぬ間際まで言ってくれた。
集大成
2012年1月11日に98歳で画家としての生涯を閉じた。最期を看取った私は遺言どおり喪主・施主となり、葬儀を執り行った。その後、著作権を含む絵画の遺贈を受け美術館設立に立ち上がった。
全国の皆さまのご寄付で建物を購入。約600点の絵画を寄贈して2013年6月15日、「NPO法人 佐々木榮松記念 釧路湿原美術館」を設立した。国道240号(通称まりも国道)のすぐ脇にあり、鶴が羽を広げたようなたたずまいの美術館である。
展示室の入り口には当館のシンボルである『釧路湿原』の絵が佐々木榮松の彫塑像と共に出迎える。誰もが鮮やかな落日の赤に目を奪われる。
先生は、景色をそのまま写し取るのではなく、湿原に野宿しながら五感で感じ取り、第六感までも持ち帰り構築して描いたのだ。「色は目でなく心で決める。見たとおりに描くのではなく、見るように描く」。命あるものや自然現象に神の存在を感じ、「やおよろずの神」に畏怖と畏敬の念を持って接した。
畳2枚以上の大きさの『エゾ鹿の沢』は、偉大なる力を感じさせる。また、『鶴眠る』は、極寒の冬、川の中で眠る月明かりの中の丹頂鶴を美しく青の世界に重ねている。
命あるものは生まれては死に、次の命に繋げるという摂理や輪廻を通して、「命の描写」をテーマとした。
釣り師として、イトウやサケを通して生命の神秘を表現した。異質な作品としては『湿原のニンフ(精)たち』と『落日のフローラ』で、空襲で亡くした愛娘を花神としてこの世のものとは思われない美しさで描いている。
だからこそ、美術館では自然光を遮断し、照明で1点ずつ絵の世界観を演出している。作家の開高健は佐々木榮松の絵画を「現代人の為の啓示」と評価している。「どう生きるのか、何が美しく大切なのか」、この価値観こそが絵に込められている。
1枚のキャンバスに「湿原の曼陀羅」を描くことは叶わなかったが、美術館展示室の空間に立つと、湿原の曼陀羅の世界観に浸ることができる。
68年間の人生を振り返ってみると30代での体験が伏線となり、40代50代は画家の人生に寄り添い、60代になり佐々木榮松の人生を語る語り部となって、集大成である美術館という舞台に今私は立っている。
(無断転載禁ず)