高橋五山の紙芝居を復刻して
- 高橋 洋子さん/全甲社代表
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企画展がきっかけ
紙芝居は今ではすっかり廃れたものだと思っている人が多いかもしれない。しかし、現在でも保育現場や図書館で紙芝居は活用されている。
そのルーツとなるのが、高橋五山(1888〜1965)が昭和10年に創始した幼稚園紙芝居シリーズである。五山は紙芝居を幼児教育に生かしたいと願い、手描きで作られた紙芝居屋さんが演じる紙芝居ではなく、幼稚園や保育所の先生を語り手として、印刷による紙芝居を目指した。五山は出版人でもあり、東京美術学校(現東京芸術大学)出身の画家でもあったので、紙芝居の絵を描き、脚本を書いて、保育現場に出向いて実演も行いながら紙芝居の出版を続けた。このような努力が実って、保育教材として紙芝居が定着していった。現在、彼の名は優れた出版紙芝居に与えられる「高橋五山賞」(1961年創設)に残るが、一般にはほとんど知られていない。私が高橋五山の足跡をたどってみようと考えたのは、2007年の夏、高橋五山の企画展が群馬の土屋文明記念文学館で開かれたことがきっかけだった。五山は私の夫の祖父で、私にとっては義理の祖父である。
しかし夫が10歳の時に亡くなっているので会ったことはない。現在の新宿区にあった五山の家は戦争で焼けたため、その紙芝居も見たことはなかった。すでに、五山の遺族は私たち家族のみとなってしまったが、五山の作品や仕事に何ら関心を持たずに過ごしていた。企画展を通じて、五山が紙芝居界に果たした役割やその作品のいくつかを知ることができ、もっと調べてみたい、という気持ちにさせられた。こうして、五山の知られていない足跡と当時の紙芝居をさがしてみようと思い立った。
紙芝居をさがして
どこかの県立図書館、幼稚園に古い紙芝居が残されているかもしれない、と願いながら探していると、群馬県前橋市の清心幼稚園と東京都杉並区の井草幼稚園に五山の紙芝居が数多く保存されていることが分かった。
この2園は戦前に設立された歴史ある幼稚園である。すぐさま行って取材し、当園のご協力を得て新たな展開に進むことができた。私は本物の紙芝居に出あえた喜びと感謝の気持ちでいっぱいになるとともに、これらの紙芝居に光を当てたい、という強い思いが心の中に湧き上がってきた。
複数の出版社に相談してみたものの、なかなか願いは叶わず、時間ばかりが経っていった。2011年1月、意を決し、『ベニスズメトウグヒス』『ピーター兎』の2作品を自費出版した。その普及方法について模索する日が続いていたところに、朝日新聞の全国版の記事に取り上げられ、多くの方に関心を持ってもらう好機となった。
その記事を見て「子どもたちに紙芝居を見せてあげたい」といち早く連絡をいただいたのが宮城県気仙沼のご高齢の男性だった。私はこの男性の電話にとても励まされた。それから間もなく、3月11日の東日本大震災でこの方が津波で亡くなられたことを知った。私は思考が停止し、出版を続ける気力もなくなり、心が空洞化状態になってしまった。
そんなある日、『なかよしのおうち』(高橋五山作・井口文秀画:1955年初版・復刻版完売)という紙芝居が思い出され、頭に浮かんで離れなくなった。その作品の解説に「人と人は互いに信じ感謝しあって、のんびりと楽しい日をおくることができるでしょうに…」という、五山のことばが記されていた。この紙芝居は10月に復刻することができ、その男性を知る気仙沼図書館などに寄贈することができた。
高橋五山の紙芝居
こうして復刻出版を続けながら、五山に関する作品や資料を探し、五山を知る人をさがし当てるなどして、調査研究を積み重ねてきた。それが9年目にしてやっと形になり、その成果を『教育紙芝居集成 高橋五山と「幼稚園紙芝居」』(国書刊行会・2016年)にまとめることができた。偶然、旧宅の物置の撤去作業の際、五山の日記が見つかるなど、これまで知られていなかった紙芝居の歴史についても本書に盛り込むことができた。
五山が紙芝居を幼児教育と結び付けようとするために、最初に目を向けたのは西洋童話だった。昭和10年4月、五山は自社の全甲社から『赤ヅキンチャン』を皮切りに幼稚園紙芝居シリーズ第1期10巻の刊行を開始した。昭和13年から第2期の『ピーター兎』などの出版を行うが前年には日中戦争が始まり、日本全体に臨戦体制が敷かれ、制約の多い中での刊行だった。
五山の紙芝居を見ていくと、能楽の「序破急」という構成形式を取り入れて紙芝居を仕立てていることがうかがえる。紙芝居の引き抜き方に工夫を凝らし「普通にぬく」「半分までぬく」「さっとぬく」などの指示を脚本に入れている。これは紙芝居の語り手となる人が誰でも実演できるようにするためでもある。五山は「机の上で物を書くな」と後継者に教え、子どもたちの中に入って作品を作っていった。紙芝居の実演の心構えとして、「上から行くな、下から行くな、対等に行け」という言葉を残している。上からの押し付けや、迎合するような卑屈な態度でもいけない、子どもにまっすぐ向かい合うことが大切だという意味である。五山のように絵、脚本、実演をこなし、自ら出版してきた人は他にはいない。「何としても紙芝居を後世に残したい」という、五山の紙芝居に賭けてきた情熱が、私を突き動かしたのかもしれないと感じている。
未来の子どもたちにも
これまで素人の大胆さで、紙芝居の復刻を6作品手がけてきた。出版を始めた頃の私は損害保険会社に勤める会社員で、どこから手を付けたらいいのか分からない状態であったが、気が付くと紙芝居の魅力にとりつかれていた。紙芝居は作品があって、観る人がいて、実演する人がいて成り立つものであり、美術、文学、演劇という3つの要素を含んでいる。その多様さゆえに紙芝居は孤立してきたが、実は日本の漫画やアニメとも深いかかわりを持っている。紙芝居は戦前、戦後と二度のブームを起こし、特にテレビが普及する昭和30年代まで盛んだった。紙芝居が大きくテレビと異なる点は、人と人とが対面して展開するところである。電子化した現代にあって、人のぬくもりが感じられる紙芝居は価値がある。いまでは高齢者向けの紙芝居も出版されている。外国ではKAMISHIBAIとして知られている。これからも紙芝居の発信を続けていきたいと思っている。
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