連載コーナー
本音のエッセイ

2021年8月掲載

お向かいのあの人へ

あさの ますみさん/作家

あさの ますみさん/作家
秋田県生まれ。2007年小学館の絵本の賞を受賞したことをきっかけに執筆をはじめる。近著に『逝ってしまった君へ』(小学館)、『アニマルバスとくものうえ』(ポプラ社)など。浅野真澄名義で声優としても活動、多数の出演作を持つ。

わが家の向かいには、子どものころからテレビで見てきたある人が暮らしている。

そのことを知ったのは美容師さんとの雑談だった。「むこうの通りに、高い塀に囲まれた豪邸があるでしょ。あの家、あの人が住んでるんですよ!」驚いて思わず「お向かいさんだ」とつぶやいたら今度は、見かけたことがあるか、日頃どんな様子かと逆に質問された。曖昧に頷(うなず)きながら、胸の奥が少し痛んだ。こんなふうに話題にされるのは、私ならあまりうれしくないなと思ったのだ。

かつて、その人のことが好きだった。稀有(けう)なクリエーティビティと、繊細さ、透明感。きっと私と同じものを見ても、こういう人はそこからうんとたくさんのものを感じ取るのだろう、などと勝手に想像していた。お向かいに住んでいると知ってからは、より具体的に考えるようになった。表札もない、窓も見えない、人の気配すらないその大きな家で、あの人は毎日なにを思って暮らしているのだろう。

数年前、かの人がマスコミを賑わせたことがあった。家に入ろうとすると、記者たちが私に駆け寄ってきた。「最近見かけましたか」「なにか気づいたことは?」ぎょっとした。目を伏せて、小走りで部屋に駆け込んだ。私にできるのは、なにも答えないということだけだった。数日間そんな状態が続いた。テレビをつけるとご近所らしき人が、テンション高く目撃情報を報告していた。言葉が出なかった。ああ有名人というのは弱者なのだと思った。

その件を経て、かの人はますます表に出なくなった。ネット上の情報も一切更新されなくなった。まるで、世間から忘れ去られることを望んでいるかのように。この町には最近おいしいレストランができた。人気のベーカリーではいつも焼きたてのパンが買えるし、数分歩けば緑が美しい公園が広がっている。はたしてあの人は、ここでの暮らしを楽しんだことがあるのだろうか。

少し前、ガレージで久しぶりに姿を見た。車からなにやら荷物を降ろしていた。元気そうな様子にホッとして、けれど目が合う前に慌てて顔を伏せた。

私は、あなたのクリエーティビティが好きだ。誰にも似ていないその魅力を、ずっと大切にしてほしいと思っている。そのことを伝えられたらいいのに。でも他者からのそんな思いの積み重ねが、きっとあなたを追い詰めていったのだ。

なにも言わずに背を向けた。どうかあの人が、日々心穏やかに暮らせますように。声には出さず、私はただ静かに祈った。

(無断転載禁ず)

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