連載コーナー
本音のエッセイ

2021年3月掲載

いきものが苦手だ

福岡 伸一さん/生物学者

福岡 伸一さん/生物学者
青山学院大学教授。サントリー学芸賞を受賞しベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』、『動的平衡』など、「生命とは何か」をわかりやすく解説した著作多数。美術ではフェルメールのファンであり、著書の発表や絵画展の企画にも携わっている。

本音を言うと、私は生物学者なのに、生物が苦手だ。より正確に言うならば、生物そのものは、美しいし、精妙だし、不思議に満ち溢れているゆえに、心の底から好きなのだが、いきものを飼ったり、育てたりすることが、苦手なのである。

そうはいうものの、私は子どもの頃から、蝶の卵を見つけては、孵化させて幼虫を育て、蛹(さなぎ)になるのを見て、そこから蝶が飛び出してくるのをいつも、心待ちにしていたし、水槽に魚やカメを入れて飼育していたこともある。家には小鳥や猫がいたこともあった。

でも、今は一切、身の回りにはペットのようなものは置かないことにしている。なぜか。

いきものを飼うと、結局、早晩、別れのときが来るからだ。朝、起きてみると、水槽に魚が浮いていたり、一冬を越すとカメが動かなくなったりした。小鳥や猫もやがて寿命を迎えた。それどころか、蝶などの昆虫に対しては、私はもっと残酷なことをいっぱいした。傷のない完全な標本を作るために、蛹から出てきて今まさに翅(はね)を伸ばしきった蝶を、その場で、胸をキュッと指先で押さえて、あやめてしまうのだ。同時に、自分の胸もキュッとつぶれる思いがした。

生物学者になったあともそうだった。生物好きが高じてなった職業、生きることの意味を研究することが目標だったはずなのに、生物を殺してばかりいた。数え切れないくらいの実験動物を解剖し、臓器を摘出し、すりつぶし、顕微鏡で観察したり、タンパク質やDNAを抽出したりした。研究とはそういうものだった。特に、私が専攻していた分子生物学というのは、ミクロなレベルで生命現象を解体することが至上目的だった。

がんばって研究をずっと進めてきたが、人生の半ばになって、そろそろ我慢の限界が見えてきた。いったい、私は何をしているのだろう。生命の謎は、分けても分けてもわからないのではないだろうか。

昆虫記で有名なアンリ・ファーブルの言葉を思い出した。「あなた方は研究室で虫を拷問にかけ、細切れにしておられるが、私は青空の下で、セミの声を聞きながら観察しています。あなた方は薬品を使って細胞や原形質を調べておられるが、私は本能の、もっとも高度な現れ方を研究しています。あなた方は死を詮索しておられるが、私は生を探っているのです」。あなた方とはまさに私のことだった。

私も人生のギアチェンジをするときだと思えた。実験動物を殺すのをやめ、研究室を閉じ、大学の学部を変わった。そして理論的な思索や執筆を中心とした研究スタイルに変えて、現在に至る。これでよかったのかどうか。少なくとも、蝶がひらひらと空を舞う姿を、今は気持ちよく見送ることができる。

(無断転載禁ず)

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