仕事と子育てとステイホーム
- 柴田 博仁さん/ソフトウェア研究者
- 1968年秋田県生まれ。東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。博士(工学)。富士ゼロックスに勤務し、読み書きを支援するIT機器の開発に従事。著書に『ペーパーレス時代の紙の価値を知る 〜読み書きメディアの認知科学』(産業能率大学出版部)。
12年前、長女が生まれた。それでも私は生活スタイルを変えることなく働き続けた。近くに親がいなかったので、妻に負担がかかったのだろう。半年ほどで妻がダウンした。
しばらく会社を休んで、子育てに加わることにした。私の役目は、日中に子どもを外に連れ出して、妻が自宅で眠れるようにすること。毎日、ベビーカーを押して近所を散策した。市内の公園を行きつくすつもりで、市内の小路を歩きつくすつもりで、毎日違う方向に向かって何時間も歩いた。散歩中にお気に入りのベンチを探すこと、そしてそこでしばし読書することに、私は喜びを見いだしていた。
幼児がいると警戒心が薄らぐのだろう。話しかけてくる人が多かった。「何歳ですか」「今が一番いいときね」「孫も同じくらいで」人に声をかけられることで、私の注意も次第に街を歩く人に向けられるようになった。私が思っていた以上に、街には子どもが多く、老人は元気で、個性的な店が多かった。人に親切にされることで、私も親切を返したいと思うこともたびたびあった。
今でもよく覚えている象徴的なシーンがある。信号のない横断歩道で、私はベビーカーとともに道を渡るタイミングを待っていた。その時、1台のバンが止まり、ヤンキーっぽいお兄ちゃんが、渡るようにと合図した。普段なら中年男性の横断を優先しないであろう若者が(違っていたら、ごめんなさい)、車を止めてはにかみながら手招きし、普段なら相手も見ずに軽く会釈するだけの私が満面の笑みを運転手に向けて大げさに頭を下げていた。
ベビーカーを押していなかったら決して出会うことのない風景だったと思う。キザな言い方をすれば、道を渡るとき、おだやかな風が吹いたように感じた。人の助けなしでは何もできない幼児がもつ力は絶大だ。
以来、研究に対する私の姿勢に少なからぬ変化が生じた。ソフトウェアの企画や設計の際、想定ユーザーを以前よりも具体化するようになった。
ユーザーとともにいる家族を常に意識するようになった。その人の話し方や笑い方、挙句の果てにはその人が朝食で何を食べ、誰とどんな会話をしたかなど、ソフトウェア開発とは一見無縁と思われる事柄にも思考を巡らすようになった。
現在、新型コロナウイルスの影響でステイホームが続いている。人々の生活スタイルや価値観が大きく変わろうとしている。子育ての経験を通して得た人の見方、街の見方が活かされるときであってほしいと願っている。
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