連載コーナー
本音のエッセイ

2017年1月掲載

誰も見ていない

手塚 眞さん/ヴィジュアリスト

手塚 眞さん/ヴィジュアリスト
東京生まれ、ヴィジュアリスト。高校時代から映画制作を始め、以後、映画・アニメ等の監督、イベント演出、CDやソフト開発、本の執筆等、さまざまな創作活動を行っている。新作映画『星くず兄弟の新たな伝説』が2017年に公開予定。

正月にいつも初詣に行く神社があるのです。観光地でもあるので三が日は参拝客で混み合うのですが、拝殿前の列に並んでいたら、後ろに並んだ子ども連れの若い夫婦の会話が耳に入りました。母親が「参拝って2礼して2回手を叩くのだっけ?」と聞くと、父親がこう言ったのです。「そんなの何でもいいだろ。どうせ誰も見てねえよ」。

その神社には何百人もの参拝客がいて、この家族の前後には何人もの人が並んでいる。にも関わらず「誰も見てない」と言い切る理由は、恐らく「間違えても誰にも怒られない」ということなのでしょう。さらに言えば「どうせ神様なんかいないだろ」ということでもあるのですが。

ならば、なぜ神社に参拝するのでしょう。「神様なんかいない」「祈願したってご利益なんかあるはずない」というなら、わざわざ混み合う年始に神社を訪れて、何十分も並んでお賽銭を投げてお参りをする必要なんかないじゃありませんか。「正月だから」「みんなが行くから」初詣をするのでしょうか。

人の心は弱いものです。誰だって怒られたくない。後ろめたいことを行っている時、誰かが見ているのではないかとびくびくしている。そこで古の賢者は「神様がいつも見ている」という理屈を打ち出した。神様に怒られるからやましいことはするな、と。「お天道様が見ている」とも言います。日本においては神様イコール自然環境なんですね。

いまや神様もお天道様も効力を失った。神社の境内で「誰も見てない」と言われてしまう。都会ならさだめし「監視カメラが見ている」なのでしょうか。

神様やお天道様が怒らなければ、子どもを叱るのは親の役目です。親が見ている。そして子を叱る。子どもは親に怒られまいと、世間のいろいろを覚えて、一生懸命になる。それがやがて生きる意思となり、糧となる。その親が子どもの前で「どうせ誰も見てねえよ」と言ってしまっては元も子もありません。

「怒られないために」というのは後ろ向きの考え方です。そんな意識では、何をやっても心から楽しいはずがない。そういう人は、積極的に生きているとは言いがたい。せいぜい「怒られないように」びくびくと生きていくのでしょう。

そんな人が、増えていかなければいいな。

(無断転載禁ず)

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