見えないものが…
- 千田 佳代さん/小説家
- 1930年東京生まれ。戦争で脚を悪くし杖の生活に。明治大学を卒業し、楽譜の出版社に就職。59歳でひとり暮らしに。73歳、雄猫「ナイル」との生活を始める。それをもとに1年半かけて書きあげたリアルな小説『猫ヲ祭ル』を出版。最高齢の80歳で小島信夫文学賞受賞。
町はずれの一軒家に1匹の猫と住む、80歳の老嬢、それが私。
7年前に移り住んだ。義兄が逝ったあと、姪にひきとられた姉の家を安く借りたのだった。
家齢34歳ほどの、そのころの文化住宅5K。東京のアパート住まいだった私には、窓の多いのがなによりだった。
そのころは、畑や野原が多く、春はつくし、ふきのとうを摘み、夏は蝶やぶんぶんが部屋をよぎり、秋の虫のすだきは、野宿をしている感じだった。そして11月、姪の家から猫がやってきた。
去勢済みの雄4歳で、名はナイル。彼は家のすみずみまで嗅ぎあげ、点検を終えると、しっかりと食事をし、いびきをかいて眠った。この家にはネズミ、もぐら、霊魂のたぐいは、不在らしい。
翌日、電器店のお兄ちゃんが、やってきた。時は夕べ。ふと、手をとめたお兄ちゃんが、ナイルをじっと見つめていた。たずねると、
「猫、なにかを見てる」
ナイルは瞳孔を黒く大きく開き、部屋の北西の宙を、瞬きもせずに、見つめていた。
その夜、竹林のさやぎを聞きながら、この家には生、病、死の歴史は1つもなく、信仰のうすい私は、ちちははの迎え火すら焚かなかったことに気づいた。ナイルは、何を感じたのだろう。
4月に介護認定をうけた。20代のケアマネジャーさんの、真摯な質問の1つの「耳鳴りではなく、会話が、ひそひそと聞こえる、そんな経験はありませんね」には「ありません」と答えた。
「見えないものが、見える。つまりすーっとそばを人が通り抜けた、そんな経験は?」
「残念ながら」
彼女は首を傾げ私の言葉を待った。
「ひとりと1匹の生活です。この家に何か住んでいるなら、にぎやかだろうなって」
彼女は口をひらき、呆然としていた。
「このあたりは、静かなのです。で、コジュケイの鳴きごえのチョットコイに、人恋しいときには呼びとめられたようで、胸がはずむんです」
彼女は「この質問は、うつ病と痴呆症のためにあるのです」と小さな声で言った。
庭に舞いおりた雀を狙って、ナイルがガラス戸に体当たりした。雀は一瞬で飛びたった。
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