連載コーナー
本音のエッセイ

2010年8月掲載

出会いの連鎖

中丸 美繪さん/ノンフィクション作家

中丸 美繪さん/ノンフィクション作家
1955年茨城県生まれ。慶応義塾大学文学部英米文学科卒業。1997年『嬉遊曲、鳴りやまず—斎藤秀雄の生涯』(新潮社)で第45回日本エッセイスト・クラブ賞受賞。2010年『オーケストラ、それは我なり—朝比奈隆 四つの試練』(文芸春秋)で第26回織田作之助賞大賞受賞。オペラ歌手の中丸三千繪さんは実妹。

半世紀にわたり大阪フィルハーモニー交響楽団の指揮者として君臨した朝比奈隆さんに会ったのは、小澤征爾さんの師として知られる斎藤秀雄の評伝の取材だった。朝比奈さんは幅広い話題、饒舌で落語家のような話ぶり。ステージ上の孤高の姿とは違う表情に執筆意欲をかきたてられた。次は朝比奈伝を書きたいと思ったのはこの時である。

朝比奈さんの評伝に着手したのは平成5年。本人へのインタビューをしてから確認作業をするのだが、どうにもつじつまの合わないことが出てくる。これは周辺取材も徹底的にしなければならないと思った。足掛け10年におよんで評伝が仕上がったとき、すでに朝比奈さんはこの世になかった。恥ずかしながら決定版といわれる評伝になったことには満足してくれただろうが、自分が秘密にしていた事実も並んでいるのを見て恐らく苦笑いをしているだろう。人間には必ず光と影がある。まさに人間こそミステリーなのである。

そもそもなぜ私は音楽家の評伝を書くようになったか。書くことは子ども時代から趣味だったが、母が音楽好きだったために四歳からピアノを習わされた。うちは商家で母も働いていたが、当初母はレッスンに同伴していた。新曲のために先生が模範演奏をしてくれると、母はますますこの芸大卒の先生に心酔してしまった。先生は母がいればレッスンにつきっきりだったが、私が一人で通うようになると、練習曲の「ハノンから」と言い残して別室に行ってしまう。曲が終わると戻ってきて、「もう1度」とまた去る。そんなレッスンの記憶なのである。私は結局ピアノを好きにならなかった。ところが音楽大学に行かせたいという母の期待を子ども心にも裏切ることはできず、指も割合動いていたため、高校3年まで続いてしまったのである。受験準備のための聴音やソルフェージュのレッスンに東京まで通ってもいた。しかし最後の土壇場で受験を拒否してしまったのだった。

私が音楽家斎藤秀雄伝を書きたいと思ったきっかけはそんな自分のトラウマからで、小澤さんがサイトウ・キネン・フェスティバル松本を立ち上げたころだった。没後20年がたつというのになぜ小澤さんは「斎藤先生」と繰り返し、私から見れば教師に呪縛されているのか。そんな疑問が動機だった。音楽をやめた経験がなかったら、私は音楽家の生涯になど興味を持つことはなかっただろう。なにがきっかけで人生が展開するか、まったくもって分からない。意外なところに別のステップが用意されているのだ。それは私が評伝の対象とした人物の人生から私が学んだことでもあった。

(無断転載禁ず)

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