聴こえてきた、昔の日本女性の叫び
- 伊藤 緋紗子さん/エッセイスト・翻訳家
- 横浜生まれ。上智大学外国語学部、同大学院仏文科修士課程修了。在学中フランス政府給費留学生としてソルボンヌに留学。大学講師などを務めた経験を生かし、翻訳やライフスタイルをテーマにした執筆活動に従事。著書は、『パリおりゃべり散歩』など51冊にのぼる。
結婚を機に、生まれ育った横浜から、東京・港区の白金に移り住んで30年以上が経過した。
フランス語を早いうちから身に付けたせいか、長い間翻訳本を出版したり、パリに関するエッセイ本を書いてきたが、最近の関心事は、もっぱら日本の歴史や過去の人物に集中してきている。理由はなぜか分からないが、身近な物事はより詳細に見える上、容易に理解できるからかもしれない。横浜はもともと海外に開けた街だから、一度外国に飛び出し、再び自国に戻るブーメラン現象は、明治以降、多くの日本人がたどった道でもあったが。
そんなわけで、この6月末、2年ぶりに出す私の著書は、これまでのどの本とも異なる52冊目となる。まずこれは、明治・大正・昭和の初めにかけて31年の生涯を駆け抜けた実在の女性の半生をつづった小説である。きっかけは偶然だった。4年前よりふるさと大使となった九州・有田で語り継がれてきた、「敏子」という女性に大変興味を抱いたからである。
旭川生まれの「敏子」なる女性が有田に嫁ぐことになったのは、東京に暮らす姉の家から、2年間山脇女学院に通っているときに紹介された、有田の旧家深川家の長男だった。そして二人はたちまちのうちにひと目惚れしたのだった。しかし、敏子は北海道生まれの自由奔放な女性で、タバコも吸うし、自らを貫き通す、当時としては稀な存在であった。大正13年に二人は帝国ホテルで披露宴を挙げた後、有田に向かった。深川製磁の2代目・進の妻となった敏子の言動の一つひとつは有田で注目の的となり、モダンの風を吹かせていった。そんな太く短く生ききった31年の生涯だったが、有田での10年間に4人の子を出産し、また陶磁器市に初めてカフェをオープンさせた。
みんなが和服姿の当時の有田に、デコルテのドレス姿でいきなり入っていった敏子の勇気と努力、そして苦悩を描いた本である。明治時代に開国し、富国強兵策の中で、次第に軍事国家に進んでいく日本に生きた彼女ら女性たちのおかげで、現代の日本女性があることをみんなに知ってもらいたい。今日の世の中、誰もが目先のこと、自分のことのみを考えて右往左往している姿は、激動の時代に生きた先人たちにはどう映っているのだろうか。
足かけ2年、歴史を紐解き、敏子の姿を追いかけて徳島・旭川・東京・横浜・有田を訪ねた日々。私は今、ますます「土の中に埋もれている先人たちの声」に耳を傾けたいと思うようになった。
この(仮題)「華の人/有田に生きた薔薇の貴婦人・敏子の物語」は来たる6月28日、小学館より発行予定。
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