連載コーナー
本音のエッセイ

2006年8月掲載

新しい才能との出会いを求める

篠田 正浩さん/映画監督

篠田 正浩さん/映画監督
1960年『恋の片道切符』で監督デビュー。大島渚、吉田喜重らとともに、松竹ヌーベル・ヴァーグとして前衛的名作品を発表。松竹を退社して、フリーとなり、独立プロ『表現社』を妻の岩下志麻とともに設立し、自主制作を始める。『スパイ・ゾルゲ』を最後に監督業を引退。映画代表作は、『瀬戸内少年野球団』(ヘラルド)など。主な著書に『私が生きたふたつの「日本」』(五月書房)などがある。

人は自分以外の人と出会うことで、生きることを学ぶ。振り返ると、尽きることのない出会いの記憶がよみがえる。

そのとき、18才になったばかりの大学生の私は陸上競技の選手だった。400メートルが得意で、高校男子の代表選手として国体にも出場した。しかし全国大会のレベルに届くような力はなかった。あっけなく敗退した悔しさから、早稲田の文学部に入学してもランナーでいようと決意して競走部に入った。

だが、そのコーチは私の走りを見て、「到底、世界記録には届かんね」と言い放った。先輩には織田幹雄、南部忠平、西田修平という世界記録保持者やオリンピックメダリストがうようよいた。コーチは、第2次大戦後の世界の潮流はスピードの加速である。400、800はいずれ短距離になる。中距離ランナーのスピードでマラソンを走らねばならない時代がやってくる。これからは君たちが長距離を担って世界選手を目指せ、と告げた。こうして私は正月の箱根駅伝の補欠選手に放り込まれた。

試合の前日になった。そのコーチは私に2区を走る先輩のアテンドを命じた。ところが試合にそなえて一緒に準備運動をしている先輩が、明日走るのはお前だ、と言うのである。当日は無我夢中で私は1区の走者から襷を受け取った。順位がどこかも分からなかった。サイドカーに乗ったコーチの怒号に従って私はピッチを上げた。途中「どうして新人の私が2区なのですか」とコーチに尋ねたら、終わったら話す、と応じた。その年、昭和25年の箱根駅伝の早稲田は2位だった。投入された新人らの好走が光った、という選評が新聞に載った。

コーチはこう説明した。「箱根は区間20キロ以上の距離を完走しなければならない。このプレッシャーから、ベテランは絶対に自分のペースを守る。その総合成績は8位か9位しか予想できない。この現状を打破できるのは新人の暴走しかない。しかし新人の篠田と10位の先輩の時間差は数分しかない。本番になったらベテランにもリスクがあるとなれば、新人の未知の可能性の方がより魅力的ではないか、と。

30年後、私が走った2区の新記録で走破したのが瀬古利彦である。彼もまた800メートルの中距離選手であったが、そのコーチの指導で世界のマラソンランナーになった。コーチの名は中村清さんである。

私が中村さんから学んだことから映画監督になっても心掛けたことが2つある。決して仕事に慣れたとベテランと思わないこと、常に新しい才能との出会いを求める、の2つである。寺山修司、武満徹、石原慎太郎らと組んだ仕事の危険にみちた日々が、今ではなつかしい記憶になった。

(無断転載禁ず)

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