よみがえるゑんま堂狂言~焼失から復活へ、笑いと伝統を次世代に~

- 戸田 義雄さん/千本ゑんま堂大念佛狂言 顧問・せんふな会 会長
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千本ゑんま堂大念佛狂言保存会
http://enmadokyogen.info/
民俗芸能「ゑんま堂狂言」
ゑんま堂狂言(千本ゑんま堂大念佛狂言)は、壬生・嵯峨と並ぶ「京の三大念仏狂言」の一つで、千本ゑんま堂 引接寺(いんじょうじ)(京都市上京区)に伝わる仮面喜劇です。念仏狂言に共通するのは、演者が全員面を着けて演じることですが、無言劇(パントマイム)として演じられる壬生・嵯峨に対し、ゑんま堂だけはセリフ(古い西陣ことば)を用いるのが大きな特徴です。格式よりも笑いを重視した庶民の芸能として、現代のお客さまにも分かりやすく親しみやすい魅力があります。
憧れと初舞台
私は引接寺の次男として1951年に生まれました。お寺の年間行事の中でも、狂言公演の期間は境内が屋台と人であふれ、子どもだった私は、そのお祭りのようなにぎわいと、演じられる狂言の楽しさにワクワクしていました。当時の狂言講は一般の人は入会できない世襲制でしたが、どうしても参加したかった私は、頭取に願い出て特別に入会を許してもらいました。
初舞台は10歳で『靱猿(うつぼざる)』の子猿役を演じました。入会した子役の特権として舞台袖から演技を見ることができ、屋台の綿菓子サービスに幸せを感じました。
幅広い世代が集まって一緒に舞台を創り上げる。非日常の世界に魅了された楽しい狂言期間でした。
中断と狂言堂の焼失
演者は全員、仕事の傍ら狂言を演じていました。高度経済成長期に入り会社勤めの人が増え、平日に狂言に参加できる人が減っていきました。テレビの普及とも重なって、それまで長く続いてきたゑんま堂狂言が1964年に中断してしまいます。私が入会してわずか3年後のことでした。残念でならず、何度も頭取の自宅を訪ねては「復活してほしい」と訴えましたが、私の願いがかなうことはありませんでした。
それから10年後の1974年5月28日の深夜、「バチ!バチ!」という激しい音と人々の叫び声に目が覚め飛び起きました。窓を開け境内を見ると、真昼のような明るさの中で「狂言堂」全体が炎に包まれていました。やがて大音響とともに舞台が崩れ落ちていくのを、私は悔しい思いで見つめていました。長い中断の末の狂言堂の全焼。当時22歳の私は「狂言が終わった」とつぶやいていました。
ゼロからの再出発
舞台も衣装も小道具も失われました。しかし、幸い庫裏(くり)で保管されていた面だけは無事でした。ゑんま堂狂言が絶えることを危惧し、中断前を知る人が再び集まり、復活への機運が高まりました。「面があって、演者がいれば何とかなる」と、当時40代になった人たちに23歳の私も加わり、保存会を結成しました。中断している間に古参の方たちも逝去され、資料もほとんどなく、まさにゼロからの再出発でした。
使える衣装をかき集め、10年前を思い出しながら稽古を重ねました。その結果、翌75年には保存会員6名による3演目だけの復活公演を開くことができたのです。
50年先の未来へ
その後、記憶などを元に『えんま庁』『道成寺(どうじょうじ)』などの演目を復活し、現在では28演目まで増やすことができました。勘違いなどで起こる演技上の間違いを直すため、年に一度は全ての狂言を演じ、次世代に正しく伝わるよう努めています。会員も幼児から80代までの30名に増え、毎週の稽古に励んでいます。
ゑんま堂狂言保存会は今年結成50年を迎えました。狂言復活の時から共に歩んできた先輩方は逝去され、結成当時を知る者は私1人だけになってしまいました。そこで若い世代に伝えるために、「語り部の会」を開き、文化庁の助成で記念冊子を作成しました。今年の本公演にお越しいただいたお客さまに、その冊子を配布することもできました。
「民俗芸能は古臭い」というイメージを取り払い、若い会員たちに「ゑんま堂狂言」の魅力を伝え、好きになってもらいたいです。これからも、お客さまも演者もワクワクできる狂言を、継承し続けたいと思っています。
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