味覚の「柱」
- 平松 洋子さん/エッセイスト
- エッセイスト。東京女子大学文理学部卒業。食文化と暮らしの関わりをテーマに執筆中。最新刊は『夜中にジャムを煮る』(新潮社)、『おとなの味』(平凡社)。『買えない味』(筑摩書房)で第16回ドゥマゴ文学賞を受賞。撮影/斎藤圭吾
電車の座席に座っていると、すぐ前に立った3人の若いおかあさんのおしゃべりがにぎやかに沸いている。
「最近ね、ほっとしてるの。ケンタがごはんよく食べてくれるのよ」
飼っている犬の話かと思ったら、どうやら自分の子どものようである。
「ほんと、ぜんぶ食べてもらうと安心するわよね。うちのお兄ちゃんも、最近お弁当残さず食べてくれるようになって」
がっくりきて、なんだかうなだれてしまう。
いつから子どもに「食べてもらう」ことになったのだろう。そもそも子どもは親やおとなの顔色をうかがうものだ。こちらが媚びたり、ありがたがったりしていると、すぐさま足もとを見られてしまう。親の腰が退けていれば、「じゃあ食べてやろうか」。こうして、食卓も味もお子さま好みにずるずる傾いてゆく。
自分の味覚に「柱」のないひとが多くなっている。つい先日、27、8の料理好きの男性に問われた。
「料理の腕が早く上達するこつはなんですか。店で食べるようなおいしい味に、どうしてもならないんです」
泡を食って、あわてて答える。
「あのね、店と同じ味にならなくていいの。だって店は、ひとくち食べておいしいと思わせなきゃインパクトを与えられない。でも、家庭で食べておいしいのは、何度食べても飽きない味。店と家庭では、おいしさの方向がぜんぜん違う」
家庭でつくって食べる味は、ぜんぶ食べ終わってああおいしかった、満足したと思えれば、もうそれで、今日を明日につなげる役割を果たす。だいいち、店のような主張のある強い味ばかり食べ続けていたら疲れてしまう。
でも基準がないと上達しません。そう言うから、こんなふうに答えた。
すべてのひとにとって、基本は母親の味。長い歳月を重ねながら育ってきた家庭の味。それこそ自分の味覚の芯、ひとに譲れない強い柱なのですよ。
だから、柱はみな違っていてあたりまえ。育った土地が東北と九州では同じであるはずがない。と同時に、その違いと幅こそ日本人の味覚や暮らしに豊かな広がりをもたらす。
さて、電車の3人のおしゃべりはまだ続いている。
「今晩は目玉焼きをのっけたハンバーグにしようっと。子どもたち大好きなの」
食べる喜びは奥深い。おなかをぺこぺこに空かせたあげく、苦手なものでもぐっと我慢して食べる幸せもあるのにな。そう思ったら、すこしせつなくなった。
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