文化遺産を通じた地域の再生
身近なところに潜む価値の発見
- 関西学院大学 社会学部 教授
荻野 昌弘さん - 1957年生まれ。パリ第7大学大学院社会科学研究科にて博士(社会学)。関西学院大学社会学部教授。主著に、『資本主義と他者』(関西学院大学出版会)、『文化遺産の社会学』(新曜社)、『開発空間の暴力』(新曜社)など。
地域再生と文化遺産
地域社会が持続するためには、経済の安定が基本条件である。ただ、それだけで十分かといえば、そうとはいえない。経済活動以外にも、地域におけるさまざまな営みがあり、それが地域を支えているからである。とりわけ、少子高齢化が進んだ現代の日本社会において、かつてのように、経済発展を第一の目標に置くのではなく、地域のなかで埋もれている資源を発見していくことが重要になっている。たとえば、子どものころから見慣れた風景や場所、建物は、こうした資源である。
社会学では、近年こうした資源を文化遺産として捉え、地域の再生において、それが重要な役割を果たすと考えるようになっている。文化遺産という用語は、文化財保護法で定められた文化財より広義の意味を持ち、さまざまな文化的事物が、その対象になる。ここでは、兵庫県たつの市(2005年に龍野市、揖保郡新宮町・揖保川町・御津町が合併して誕生)の事例を見てみよう。
龍野の文化遺産
龍野はかつて脇坂藩があった城下町だった。うすくち醤油やそうめん、革製品が有名で、旧市街の一角は、2019年に重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。ただ、地域のなかで、重要伝統的建造物群保存地区だけが文化遺産として認識されているわけではない。地域住民は、自分たちが通った龍野幼稚園や龍野小学校に強い愛着を抱いている。とりわけ、龍野幼稚園は、1890年に、兵庫県下で初めて開設された公立幼稚園である。少子化で、保育園と合併し、こども園として再出発するため、2020年度は休園し、改修工事を行ったが、住民たちは、歴史がある園舎の面影を残すよう要望したという。
幼稚園の前には、詩人・作詞家の三木露風の生家がある。露風は、「夕焼小焼の赤とんぼ、負われて見たのはいつの日か」の歌詞で有名な童謡『赤とんぼ』の作詞者で(作曲は、山田耕筰)、市のマンホールにとんぼがデザインされるなど、とんぼは、地域のシンボルマークになっている。『赤とんぼ』は、幼いころに両親が離婚し、母と生き別れた露風が、母への思慕を謡った童謡である。
露風の母碧川かたは、離婚後、東京帝大病院附属看護婦養成所を経て、東大病院に勤務した後再婚し、1923年には、婦人参政権同盟を結成している。このころ、露風は、母かたと再会し、1927年、かたが発刊した雑誌『女権』創刊号に、俳句を2首寄せた後、5月号には「女性の地位を高めよ」という論文を載せている。現在、龍野には、女性の権利確立のために闘った、かたの生涯を広く知ってもらうために、「碧川かたを朝ドラの主人公にする会」が結成されている。また、『人生論ノート』が有名な反戦の哲学者三木清も龍野出身である。
龍野の事例は、住民がかつて通った学校から、地域が生んだ芸術家、文化人の生涯のような無形の財産に至るまで、さまざまな対象が、地域が共有する文化遺産となることを示している。
共生への道標
露風の生家は入館料を取らない。うすくち醤油製造の歴史などを展示している、うすくち龍野醤油資料館の入館料はわずか10円である。また、町内の駐車場も無料である。駐車場が無料なのは、外部から訪れる者には、車に乗ったまま、街を通り過ぎるのではなく、車を降りて、街をゆっくりと散策してもらいたいという願いがあるということだが、そこには、商業主義的な観光による地域振興とは異なるあり方が見て取れる。それは、文化遺産が公共性を持つ共有財産であるという考え方である。有形、無形の文化遺産は、地域住民のみならず、そこを訪れるすべての人々にとっての財産だとみなされているのである。
これは、文化遺産の保存の試みが、過去の文化への偏狭的なこだわりではなく、他者との共生へと向かう道標になっていることを示している。
真の文化的多様性
地域住民のなかで生まれる、地域の文化遺産の他者との共有への志向性は、通り一遍ではない、真の文化的多様性を生む素地となる。地域住民は、外部からの声を聞き、また外部からの来訪者は、文化遺産に接することで、地域文化に触れる。これは、地域住民と来訪者双方にとって、異質なものと出会う機会となる。龍野の場合、城下町だった時代には交通の要衝で、異質な文化が交わる拠点だった。そうした歴史があるからこそ、多様性を理解した三木露風や三木清のような人物を生んだのかもしれない。
日本には、龍野のような地域が、ほかにも数多く存在する。ただ、身近なところに潜んでいるさまざまな有形、無形の資産を文化遺産として理解し、認識していくことが難しいことも事実である。身近なところにあるものが、実は想像していた以上に価値があることがあるという意識をもって、他者の目で、生活の場を見直していくことが、文化遺産の発見には必要なのである。
「地域再生を考える」編集委員会
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