「しあわせになる」は呪いの言葉!?
- 荒川 和久さん/独身研究家・コラムニスト
- 広告会社において数多くの企業のマーケティング戦略立案やクリエイティブ実務を担当した後、「ソロ経済・文化研究所」を立ち上げ独立。独身生活者研究の第一人者としてメディアに多数出演。著書に『「居場所がない」人たち』『結婚滅亡』『超ソロ社会』等がある。
「しあわせになりたい」などという言葉を聞く。
多くの人の琴線に触れるのか、「しあわせになるために」などをタイトルにしたハウツー本や得体の知れないセミナーなども開催されている。それだけ需要があるからだろうが、私にはこれがどうにもむしろ「呪いの言葉」だと思うのである。
「いい会社に入ればしあわせになれる」「結婚すればしあわせになれる」などと言われたりする。一見「ある目標に向かって邁進した先にしあわせが待っている」というポジティブな意味に思えるが、これが実に危険なのだ。
「〇〇であればしあわせになれる」と信じ込んでしまうことは、同時に、「〇〇でなければしあわせになれない」という呪いを自分自身にかけてしまうことになる。もちろん、ある目標を定めてそれに向けて進んでいくこと、それ自体は否定しない。が、本来、そのひとつの目標に到達したか否かで、自分のしあわせが決まるものではないはずだ。達成できなくてもそれが不幸に直結しない。当然、他の道だってある。
そもそも「しあわせになる」というこの「なる」が曲者で、しあわせとは「なる」ものなのだろうか、と。
英語で言えば「Be happy」で、「しあわせという状態に自分自身がある」ということである。一見、違和感はないかもしれない。しかし、まるでどこかにしあわせという状態が存在して、それを見つけ出し、そこに入り込めばしあわせになれるかのような誤解を生む。だからこそ「しあわせ探し」などという言葉も生まれるのだろう。
しあわせとは「なる」ものではない。「する」ものである。名詞ではなく、動詞である。状態ではなく、行動である。つまり、「Do happy」という考え方である。昨今「Well‐Being」などと言われるが、そうではなく「Well-Doing」なのである。
しあわせという言葉は元々「仕合わせ」と表記した。中島みゆきさんの名曲『糸』でもこの表記である。何かの作業や行動を誰かと共にして合わせるという意味である。そもそもが「仕合わせる」という行動を意味する。
そう考えれば、しあわせなどはそんな大層なものではなく、いつでもどこでも誰とでも、行動次第でいかようにも感じられるものなのである。
「やる気がないから行動しない」のではなく「行動すれば勝手にやる気が出る」のである。しあわせに「なる」ために、目標を定めて努力しないといけないというから、一生「しあわせ探し」をする羽目になる。下手をすればいつの間にか変な壺を買わされていたりする。
「しあわせになる」という呪いから自分自身を解き放とう。
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