ブラジルと日本で手にした医師免許 4カ国語を駆使、国際診療の最前線へ
- 南谷 かおりさん/りんくう総合医療センター 医師
- 1965年、大阪生まれ。ブラジルの国立大学医学部を卒業し、医師免許を取得。92年に大阪大学放射線医学教室研究生となり、96年に日本医師免許取得。2006年、りんくう総合医療センター国際外来担当医に就任。以降、国内で医療通訳者や日本国際看護師を養成し、外国人医療に尽力する。現在は地方独立行政法人 りんくう総合医療センターの国際診療科部長、健康管理センター長。大阪大学医学系研究科公衆衛生学教室の招へい准教授も務める。
外国人患者専門の医療チームを牽(けん)引
関西国際空港からのアクセスがよい「りんくう総合医療センター」には、日本語が不自由な外国人患者さんを対象にした国際診療科があります。外国人観光客も在留外国人も安心して安全な医療を受けられるよう、受付から各診療科での受診や検査、会計までサポート。診察室では医療通訳者も同席し、医師と患者さんのコミュニケーションを円滑にしています。
私はブラジルの病院で研修医を務めたのち、日本で医師免許を取得しました。これまでの経験やスキルを評価していただき、同医療センター国際診療科の立ち上げから参画し、この専門チームをまとめる役割を担っています。
父の転勤で小6からブラジルで過ごす
小学2年生までは大阪で祖父母や叔父、叔母を含めた大家族で暮らし、小3の時に父の転勤で九州へ。自由奔放な性格の年子の妹に比べて、私は周りに気をつかってばかり。自分から前に出るタイプではありませんでしたが、クラスになじむと、学級委員に選ばれていました。友達に恵まれて伸び伸びと走り回る一方で、動物の世話や絵を描くことが好き。習字の先生からは「うまく書けているけど、字に力強さがない」と言われる、なんでもそつなくこなすが消極的な子どもでした。
エンジニアをしていた父は、永住を見据えて海外転勤を志願して実現。小6になると、家族全員でブラジルに引っ越し、午前中はポルトガル語で現地校、午後は日本人向けの補習校に通う新生活がスタートしました。補習校の中学3年生修了時には、ポルトガル語がそれなりにできるようになっていたので、ブラジル人が通う高校に進学。高1が定員に達していたため、飛び級で高2のクラスに入ることに。高3は予備校のような位置付けの進学校であったことから、高3で高1の内容を学び、大学の受験勉強にも力を注ぎました。
なぜ私が勉強を頑張れたかというと、補習校時代の友達はすでに日本に帰国していて、勉学に励んでいたからです。ブラジルの学校は夏休みも長く、ゆったりとした時間が流れています。今、ラクをしてしまったら、私の人生はどうなってしまうのだろうか…。そんな不安に襲われたのです。
ブラジルの大学は教員のストライキでよく休講になっていましたが、医学部にはストライキがなく、カリキュラムも充実しているという理由で、医学部を志望。大学入学試験の国語の文法は、現地人の平均よりも高い点数を取ることができました。普段、スラングで話すブラジル人に対して、基本的な文法に従ったポルトガル語しか知らないことが功を奏したのでしょう。計算が得意だったこともあり、16歳で国立大学医学部に合格できました。
ブラジルで学び研修医を経て日本へ
ところが、大学の授業では、医療用語などこれまでに聞いたことのないポルトガル語の単語がバンバン出てきて、なかなかついていけません。友達からノートをコピーさせてもらって勉強することで、1つ1つのテストはクリアできましたが、全体像がいまいちつかめないでいました。
そこで、大学卒業後に1年間、大阪大学医学部附属病院に逆留学。日本の医学書を使い、日本のやり方で学ぶと、疑問点がどんどん解消されていき、実に分かりやすかったです。自分は日本人なのだ、と改めて実感しましたね。日本人の研修医たちは、服のセンスも話し方も違う私のことを外国人だと思って接していたでしょうけど(笑)。
ブラジルに戻り、研修医になるための試験を受け、リオの公立病院で放射線科の研修医に。放射線科はデスクワークに近く、体力的にも女性におすすめだし、機器の発展とともに今後は画像診断が必須になると周りにアドバイスされたからです。しかし、2年間の研修後、「公立病院では外国籍の人を正職員に採用できない」という衝撃的な事実を明かされたのです。私立病院の採用は試験でなく知人からの推薦が必要なのにリオに知り合いはいませんでした。
放射線科の業務ではCTとMRIが欠かせないのに、当時のブラジルでは特にMRIの導入が遅れていました。CT、MRIの保有台数がダントツに多い国といえば日本です。治安の悪化を気にして、私と父以外の家族が先に帰国していたこともあり、思い切って日本で医師の道を目指す決意をしたのです。
ひたすら猛勉強で日本の医師免許取得
ブラジルの医師免許を持っていましたが、日本で医師として働くには学び直しをする必要があります。27歳で帰国して大阪大学放射線医学教室に在籍しながら、まずは医師国家試験受験のための予備試験を受けました。図書館にこもり、分厚い本の内容をひたすらノートにまとめて頭に入れていく日々。ブラジルで臨床経験を積んでいたため、病気についての理解が深まり、知識を定着させることができました。
予備試験合格後は、大阪大学医学部附属病院で1年間研修し、31歳でようやく日本の医師免許を取得できたのです。
私は母が専業主婦だったこともあり、子どものころからなんとなく女性は家庭に入るものなのだろうと思っていましたし、父も息子だったら将来があるのでブラジルに連れて行かなかったと言っていました。だから、ブラジルで研修医をしていても、キャリアウーマンになる気はありませんでした。しかし、苦労の末にようやく手に入れた日本の医師免許。「こんなにも頑張ったのだから、ムダにしてはもったいない。私は医師をずっと続けていきたい」と心から思いました。
外国人患者の通訳を頼まれるように
私は日本語以外、ポルトガル語、スペイン語、英語での対応ができます。現在勤務するりんくう総合医療センターが市立泉佐野病院という名称だったころ、私は放射線科で勤務しながら、ほかの診療科に外国人患者さんが訪れるとよく呼び出されました。話が通じなくて困っているというのです。自分の業務が詰まっていてすぐに行けない時も「遅くなっても待ちます」と。私が医師と外国人患者さんのあいだに入って通訳すると、不安そうにしていた患者さんの表情がみるみるほころんでいきます。満足していただけたことに、大きなやりがいを感じました。
当時の副院長が外国人専門の外来を立ち上げようとした時に、私に白羽の矢が立ちます。自分の経験を最大限に活かせると思い、快諾しました。新たに立ち上がった女性外来と専任医師がいなかった人間ドック部門も任され、41歳で3足のわらじを履くことになりました。
医療通訳の必要性を強く感じている
医療通訳者と外国語ができる事務スタッフを採用し、2006年に国際診療科の前身である国際外来が誕生。フォローアップ体制を整え、医療通訳者を独自に養成することも始めました。2013年にはこの取り組みを知った大阪大学から声がかかり、大学内に医療通訳養成コースを立ち上げました。その後、国の医療通訳認定制度の策定にも関わり、現在は日本国際看護師(NiNA)の育成にも力を注いでいます。
患者さんとの多くのトラブルは、とことん対話をすることで防げると私は考えています。特に外国人の場合は、宗教上の理由などで注射を拒んだり、特定の飲食物を口にしなかったり。1人1人そのときどきで多種多様な思いを抱えています。病院側と患者さんのスムーズな意思の疎通は、医療従事者の負担軽減にもつながります。
そして、外国人患者さんの対応をしていると、「日本人の患者さんのなかにも、同じことを気にする方がいるのではないか」「このような説明では、分かりづらかったのでは?」といった気づきがあるもの。医療の質の向上にも、大いに役立つといえます。
周りの人のおかげで頑張ることができた
毎日、忙しく過ごしていますが、りんくう総合医療センターは海外に行くには最適な立地。連休があると、勤務後に自宅に帰らずにそのまま1人で、パッと海外に出かけたりします。文化の違いを知ることは、楽しくて飽きることがなく、海外旅行は私のストレス発散であり、エネルギーの源!アジアやアフリカなど60カ国以上を訪れ、秘境ツアーにも何度も参加しました。
父は南国ムードのブラジルを気に入り、長く住んでいましたが、病気になった時に言葉の壁を感じて帰国し、日本で亡くなりました。冒険好きの父は、定年後に母との世界旅行を夢見ていましたが、ほとんど実現できなかったため、代わりに私が行く先々の国で父の散骨をしています。
11歳でブラジルに渡り、31歳の時に日本の医師免許を取得。41歳で国際外来担当医に就任。振り返ると、なぜか1がつく年齢の年に、転機が訪れています。私は自分の置かれた環境で、やるべきことに一生懸命に取り組んできました。
さまざまな幸運な出会いのおかげで、人生を切り拓くことができ、困難な課題も乗り越えられました。あっと驚くようなうれしい再会にも恵まれ、九州の小学校時代の友達とは今でも交流があります。ブラジルの大学の同級生とはグループメールでつながっていて、永住ビザの更新で2年に1度、現地に戻るたびに「かおりが帰ってくる!」と、みんなが集まってくれるのもうれしいですね。周りの人に支えられ、今の私があります。
(大阪府泉佐野市のりんくう総合医療センター国際診療科にて取材)
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