奈良少年刑務所「詩の教室」 癒やされたのは私だった
- 寮 美千子さん/作家
- 1955年、東京生まれ、千葉育ち。86年、毎日童話新人賞を受賞し、作家活動に入る。2005年、小説『楽園の鳥 カルカッタ幻想曲』で泉鏡花文学賞受賞。06年に奈良市に転居し、07〜16年、奈良少年刑務所「社会性涵養プログラム」講師。『あふれでたのはやさしさだった 奈良少年刑務所 絵本と詩の教室』『なっちゃんの花園』『名前で呼ばれたこともなかったから 奈良少年刑務所詩集』(編著)ほか著書多数。
子どもの頃から詩が好きだったが…
父は陸軍経理学校の17歳の学生のとき、焼け野原になった東京で終戦を迎えました。祖父が戦争で亡くなったため、残された家族を支えなければならないという重責がずっしりとのしかかり、進駐軍で働きはじめました。そこでアメリカの豊かさを目の当たりにし、大きなショックを受けたそうです。
その後、税務署勤務となった父は、税務調査に入った酒販会社で母と出会って恋愛結婚をし、1955年に私が誕生。「娘にはよい教育を受けさせたい」という父の意向で、千葉市内の公務員宿舎から千葉大学附属の小中学校に通いました。私は男の子に交じって活発に遊ぶタイプでしたが、こっそり詩を書くような面も。自分の心を詩にしましたが、教室では「小学生らしい詩」を書いて仮面を被っていました。
中学生になると仲間同士で詩のノートを交換するように。背伸びして千葉大学の購買部で本を買い、文語詩や点だけといった前衛的な表現を片っ端から自分の詩に取り入れていきました。
千葉県立千葉高校に進学。それまで周囲は「お坊ちゃんお嬢ちゃん」ばかりだったのですが、言葉も文化も違う地元の子たちに会ってショックを受けました。「もっといろんなものを見聞きしなければならない」と心から思いました。
父は子煩悩なやさしい人でしたが、戦争によるトラウマを抱え、ときにキレて暴力を振るいました。学生運動やヒッピーに興味を持つ私が「かわいいお嬢ちゃん」でなくなっていくことを嫌った父とぶつかることも。勉強に集中できなくなり成績低下。「大学に入れないなら就職しろ」と父に言われ、公務員試験を受けて合格。卒業後は外務省に勤務しながら中央大学の夜間部へ。外務省の独身寮に引っ越し仕事漬けの日々を過ごしていましたが、忙し過ぎて大学に通えなくなりました。入省して1年半が経った頃、この仕事は向いていないと感じて外務省も辞めてしまいました。
苦しい現実にも直面 広告制作から作家へ
「字を書いてごはんが食べられたら、どんな仕事でもいい」。ずっとそんなふうに思っていて、草思社という出版社の編集助手の求人に応募。当時、高卒者の採用は難しく、倍率も50倍くらいでした。外務省を辞めたあと、「私が書く文章を他人はどう思うのだろう」とふと頭をよぎり、詩誌『ユリイカ』にはじめて詩を投稿。すると、一発で採用に。面接でこの話をしたら、雇ってくれたのです。後で知ったけれど、面接官が長谷川龍生さんという大詩人だったんです。好きなことが幸いしました!
配属されたのは広告制作部。気難しいと有名なN響のホルン奏者のインタビューを先輩から押しつけられ、「お話聞かないと帰れません」と泣きついたらやっと話してくださって。このときの原稿が気に入られ、以後「寮美千子ならインタビューに応じる」とその先生から指名が入る、なんていうレジェンドも(笑)。
数年後、フリーランスのコピーライターに転身。電通でコンペで落ちたはずの案が広告になっているのを見て愕然(がくぜん)。そもそも私1人で考えたものだったのです。そんなこともあって「なぜ自分は字を書いて暮らしたいのか」を振り返りました。そして、童話を書きはじめ、31歳で毎日童話新人賞を受賞。
しかし、この受賞が苦しみにつながりました。受賞狙いで書いたら「受賞作と同じようなものを」という依頼ばかりがきて。それは私が本当にやりたいことじゃない、童話は短いからいじられるのだ、それなら長編を書こうと思いました。小説を書こうと思うことなど、それまでなかったのに。
小説で自分の存在を伝えたら救われた
はじめて書いた小説『小惑星美術館』は、毎日中学生新聞に連載され、のちに書籍化されました。挿絵は憧れの宮沢賢治の画本を手がける、小林敏也さん。私は小林さんの絵の大ファンで「いつか小林さんに挿絵を描いてもらいたい」と願い続けていました。もがき続けた結果、夢が実現した瞬間です。
その後私は、経済的な見通しもないまま35歳で離婚。そんなとき、セント・ギガというラジオ局から突然仕事がきたのです。「自然音や癒やしの音楽に合わせて朗読する詩を書いてほしい」とのこと。作家の沢木耕太郎さんが『小惑星美術館』を読んで私を推薦してくださったというのです。献本もしていないのに。ツテやコネじゃなくて、作品そのものを評価してくれたことがうれしかった。自分が書いた詩がはじめてラジオから聴こえたとき、号泣しました。書きたいものを書いて「私はここにいます!」と旗を高く掲げて振ったら、「あなたがそこにいてくれてよかった」と反応してくれる人がいたのです。心から救われました。セント・ギガには約7年間で600篇以上の詩を提供し、生活も成り立ちました。
祖父と父から受け継いだもの
『小惑星美術館』はSF小説です。これを読んだ父がポツリと「おじいさんも似たようなものを書いてたよ」と。祖父は教師として働く傍ら、サイエンスライターとして活躍し、相対性理論の解説書も書いていました。しかし、私は知らなかった。父が話してくれなかったからです。きっと戦争を思い出したくなかったのでしょう。
父とはこんな思い出があります。毎年訪れていた海で妹と貝殻拾いをしていたとき、父が「不思議だね。どうして海の中で、こんなきれいなものがひとりでにできるんだろう」と言ったんです。そのとき、父の掌のなかの白い巻貝に、雲の切れ目から光がまっすぐに降りてきたように感じました。科学や数学は決して冷たいものではなく、この世界を知る鍵になるという思考が、私のなかで定着したのは父のおかげです。父は、父の父からそれを受け継いだのでしょう。
『小惑星美術館』の発表以降は、「寮美千子らしさ」を評価してくれる周囲に恵まれ、一気に世界が開けました。2005年には泉鏡花文学賞を受賞。首都圏以外の場所で暮らしてみたいという夢を実現して、06年に奈良に移住しました。
奈良少年刑務所で詩の教室を始める
その後縁あって再婚。その夫から「煉瓦(れんが)の名建築があるから行ってみよう」と誘われて訪ねたのは、当時の奈良少年刑務所。現在は旧奈良監獄として保存されるその壮麗な建物に惹かれ、中も見たいという理由で矯正展にも足を運びました。その際に刑務所の教官と言葉を交わしたことがきっかけで、私と夫は07年から10年弱、月1回、受刑者を対象に詩の授業を行うことに。こんな人生が待っていたとは、夢にも思いませんでした。
奈良少年刑務所の受刑者は強盗、殺人、レイプ、放火、薬物などの重い罪で服役しています。最初は怖いと思いましたが、それは偏見でした。彼らはもれなく虐待を受けていました。悲しみや苦しみを心の内に抱えて外に表現できなかった結果が、犯罪につながったのです。授業では彼らに詩を書いてもらい、本人が朗読し、みんなで感想を述べ合いました。
耳から入ってくる言葉は、心の中に直に響きます。私はセント・ギガの仕事で、ラジオから自分が書いた詩が聴こえてきたときのことを思い出していました。悲しみのない人生はない。でも、鎧を脱いでみんなで話し合えば、やがて傷が癒え、温かな絆が生まれる。刑務所での授業を通して、そう実感できました。
親の期待には応えられなかった困った娘だったけれど、受刑者たちからは肯定された気がして、私自身が癒やされていきました。
虐待や差別についてまずは知ってほしい
奈良には認知症の父も連れてきました。亡くなるまでの6年間は自宅介護で、ずっと一緒にいられたのはうれしかった。夫は「だって親だもん」と言って、本当によく面倒を見てくれました。頭が上がりません。
奈良では立ち飲み屋に入るなど、今までやってこなかったことにも挑戦。そんななかで、在日2世で差別を受けてきた方とも出会いました。私はこれまでの約50年、差別のある世界を見ないでいられる場所で過ごしていたんだ、とハッとさせられました。彼女のことは『なっちゃんの花園』という小説に書かせてもらいました。差別を気力と度胸ではね返してきた、パワフルで楽しいお話です。
今、講演活動などを通じて「社会で差別される人のことを知ってほしい。少しでも偏見のない眼差しで見てほしい」と訴えています。人の命は尊い。世界中から虐待や差別がなくなれば、戦争も起こらないはず、と私は信じています。
(奈良市内にて取材)
(無断転載禁ず)