Ms Wendy

2024年7月掲載

29歳で関西を飛び出し東京へ 『大奥』「美味でございますぅ」

久保田 磨希さん/女優

久保田 磨希さん/女優
1973年生まれ、京都府出身。1998年、ドラマ『いのちの現場から』の看護師役でデビュー。『大奥』シリーズで注目を集め、『アタック№1』で32歳にして女子高生役を演じ話題に。NHK連続テレビ小説『てっぱん』『まんぷく』『舞いあがれ!』、大河ドラマ『花燃ゆ』など多数のドラマや、映画『夜明けのすべて』『あまろっく』、舞台『ピーターパン』『メリー・ポピンズ』『エレファント・マン』『ジュリアス・シーザー』などに出演。大阪芸大短大で客員教授を務めるなど、後進の演技指導にもあたる。
テレビの中の人に憧れ でも、口に出せず

実は幼いころから芸能界に憧れていました。両親は寿司屋を営んでいたので忙しく、一人っ子の私はテレビがお友達。1日中テレビから人の声が聞こえてくれば、一人でも寂しくありません。そのテレビの中の世界はいつもキラキラして楽しそうで、私にとってどんどん大きな存在となり、いつしか「私もテレビの中に入りたい」と願うようになっていったのです。

 

ただ、当時はまわりにそんなことは言えませんでした。なぜなら、テレビに出ている人は小柄できれいな人ばかり。それに比べて、私はとても大きな子どもだったのです。小学6年生で今とほぼ同じ身長(170cm)がありました。

 

そのころには「女優になりたい」と考えていましたが、自分から言える雰囲気ではなく、将来の夢を聞かれたら本心を隠して「看護師さん」「女性警察官」と答えていました。

30歳までの夢を電話帳の裏に書いた中学生時代

しかし、熱い思いはずっと持っていました。

 

中学生になった私は、その日見たドラマの台詞(せりふ)を最後まで暗記して、自分がやりたい役をそのまま演じ、そのほかの役の台詞は頭の中でしゃべってドラマを再現。これを誰に聞かせるわけでもなく、毎日、寝る前の日課にしていました。

 

また、自分の電話帳の裏に夢を書き出し、毎日眺めて将来の自分をイメージしていました。「19歳で大人の劇団に呼ばれる」「20歳で〇〇をする」など、18歳から30歳まで具体的な目標を立て、「29歳から30歳の間に東京へ行く」と書いたことを今でも覚えています。

 

高校時代は実家の京都福知山から電車で片道2時間かけ、大阪にある養成所にも通いました。

 

ですが、そこまでしても夢が叶うとは思えなかった。私なんて女優になれるわけがない。だったらせめてドラマを制作する側に回ろうと、大阪芸術大学放送学科へ進むことを決めました。

老け役で大喝采!女優への活路を見出した

ところが、そこで思わぬ転機が訪れたのです。

 

女優を職業にすることは諦めましたが、学生時代ぐらいは思いっきり演技をしてみたいと、演劇部に入部。1年生の最初の公演で急きょ先輩の代役として「お母さん役」で出演することになり、まさかの大喝采を浴びることに。私は18歳でしたが、体格のよさから同世代の学生に比べて老けて見えたので、お母さん役にぴったりだったのです。

 

「すごくよかった!」と多くの方から言われ、「あれ?私が女優をやってもいいのかな?」と。一筋の光が見えた瞬間でした。

 

そこからは演じる側にのめり込み、一般の劇団の公演に出演したり、自分たちでも劇団を旗揚げしたりして、演劇漬けの学生時代を過ごしました。

ドラマデビュー作で8年間レギュラー出演

卒業後も学生時代の延長で、アルバイトをしながら小劇場を中心にお芝居をやっていましたが、24歳のとき、役者の先輩から「芸能事務所に入らないと先がないよ」と教えられ、大阪の事務所を紹介してもらいました。

 

ある日、デビュー作となるドラマ『いのちの現場から』シリーズ(主演:中村玉緒さん)のオーディション要項を事務所で見つけ、すでに一次審査は終わっていたのですが、二次審査から受けさせてもらってなんと合格!しかも私は新人ナース役で、子どものころについた苦し紛れのウソを「役」という形で叶えることになりました(笑)。

 

役名は大沢福子。気は優しくて力持ちで、食欲旺盛。若いからヘマもするけれどまわりに助けられ…。今の自分とあまり変わらない、癒やし系キャラクターです。そんな福子が視聴者のみなさんにも支持していただけたのか、1998年の登場から2006年まで、シリーズが変わり、主役以外の役者が入れ替わっても、福子だけはずっとレギュラーでいさせていただきました。

関西では先がない 退路を断ち上京

しかし、大阪での活動だけでは「先がない」こともだんだん分かってきました。知っている劇場が次々閉鎖され、ドラマの制作もなくなるという話を耳にするようになったのです。それで、東京の事務所への移籍を模索し始めました。

 

ところが、事はそう簡単ではありません。当時、私は29歳で、大阪で撮影中だった『いのちの現場から』のプロデューサーさん経由で「ここは」と思う事務所を紹介してもらっても、「その年齢の女性の人生は背負えません」と断られてしまうのです。関西で撮影のNHK朝ドラや他のドラマにも出演していましたが、「その程度では(東京で)通用しない」「あなたは大阪にいたほうがいい」と言われてしまったのです。

 

これはもう、関西で腰を据えてがんばるしかないと思っていたときに出会ったのが、関西ローカルドラマ『部長刑事シリーズ』ファイナルで共演した宮崎美子さんです。

まわりが口をそろえて「今から東京は難しい」と言う中、唯一、宮崎さんだけが「来ちゃえばいいじゃない!」と言ってくださり、「そうか、行っちゃえばいいんだ」と(笑)。今の事務所(ホリプロ系プロダクション)に入れるとは決まっていないのに、大阪の事務所を辞め、家を引き払い、「東京に引っ越してきたのでよろしくお願いします!」と、強硬手段に出たのです。

もちろん、行っても何も仕事がなく、女優を辞めることになるかもしれません。「それでもいいの?」と自分の胸に問いかけました。でも、そのときは東京に行く選択肢しかなかった。われながら大胆だったと思いますが、事務所も「ただし、1年間で結果が出なければ辞めてもらいます」という条件付きで受け入れてくれました。

結局のところ、自分自身の決断と勇気なしに夢を実現することはできないのかもしれません。みなさまもよくご存じのドラマ『大奥』シリーズへの出演が決まったのは、その半年後のことでした。

「美味でございますぅ」名台詞(ぜりふ)の誕生秘話

『大奥』のチーフ監督が以前、大阪で私の芝居を観てくださったことがあり、役柄にイメージがぴったりということで、奥女中「浦尾」役にキャスティングしてくださいました。しかし、東京では無名の女優です。撮影現場ではとにかく厳しく演技指導されました。何を言われているのか分からなくなるほど怒鳴られて、泣きながら帰る毎日でした。

 

そんなある日、台本に「美味でございます」と書いてあったのです。カメラが回る中、監督が私に語りかけました。「初めてカステーリャを見た。これは何だ?箸でつまんでみろ。こんなふわふわした感触は初めてだ。でも、(毒見なので)食べると死ぬかもしれない。覚悟して口に入れる。おや?甘いぞ、溶けてきたぞ。今だ、行け!!」

 

その勢いでポン!と出てきたのが、「美味でございますぅ」でした。その瞬間、「それだ!」と言われてカット。まるで催眠術にかかったようでした。

無我夢中のなか飛び出した台詞でしたが、ドロドロ劇で唯一ホッとできるシーンとして定番となり、撮影スタッフのみなさんも楽しみにしてくださるように。照明さんは張り切って奥女中3人組の顔映りをよくしてくださり、毒見をする食べ物は本当においしくて、おまんじゅう一つでも歯切れのよいものにしてくださる。だったらもっと面白くしたいと、3人(鷲尾真知子さん、山口香緒里さん)でよく練習したことを思い出します。

子どもが生まれ、生きるのが楽になった

その後、東京で再会した演劇部の先輩と結婚。不妊治療や体外受精の失敗も経験し、子どもは半ば諦めていたところ、6年後に娘を授かりました。

 

産んでよかったなと思うのは、何一つ計画通りにいかないことを知ったことです。元来、妙に真面目で自分の中にルールをたくさんつくり、それがうまくいかないと自分を許せず落ち込む性格でしたが、生まれた女の子が、とにかくエネルギーにあふれかえっていてすごく手がかかる。いい意味で“適当”じゃないと生活が成り立たないのです。子どもをもつと女優業はどうなるのだろう…と考えた時期もありましたが、生まれてしまえば、そんなことを考えるひまなんてありません。「人生も同じ。予定通りいかなくて当たり前」を娘に教えてもらい、かえって生きやすくなりました。

指導する立場に「なんかいい人」になって

今は現役で女優をやりながら、伸び盛りの若い人たちを教える立場にもなりました。コロナ禍が始まったころに、ホリプロ内でワークショップをスタート。そのほか、去年、母校・大阪芸大の短大で客員教授に就任。さらに今春開校した「ホリプロ・コメディ・アカデミー」の演技講師を務めています。

 

とはいえ芝居は教わってうまくなるものではありません。一番伝えたいのは、内面を磨き、「なんかいい人」になること。年齢・見た目・演技力がほぼ同じ2人がいたらどちらを選ぶか?というとき、「なぜかこの人がいい」と思わせる人になってほしいのです。

そのためには人間観察や人に興味を持つことも大事です。私はよく手づくりプレゼントを渡したり、サプライズをするのが好きなのですが、必ずしも相手が喜んでくれなくてもいい。でも、その人を大切に思う気持ちがときに相手の心を動かすこともあると思っています。

芸能界はまさに人と人とのつながりがすべて。私自身も「なんかいい人」を探し続け、年齢を積み重ねても常に求められる人でありたいと思います。

(東京都品川区にある事務所内にて取材)

  • 7歳のころ。父、母と、阿蘇山(熊本県)にて

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  • 中学校の入学式。母と

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  • 19歳のころ。舞台『デロス 大映画戦争』

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  • 23歳のころ。中央が本人。人生で唯一、痩せていたころ

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  • 24歳のころ。舞台『死んどる場合か』

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  • 25歳のころ。宣材写真

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  • 2年前、家族が増えました。愛犬そいちゃんと

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  • 大阪芸術大学短期大学の授業風景

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  • 久保田 磨希さん

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