30代で『ZIP!』のキャスターに いつまでもプレーヤーでいたい
- 馬場 典子さん/フリーアナウンサー
- 1974年東京生まれ。早稲田大学商学部卒業。97年日本テレビ入社、アナウンサーとして活躍後、2014年にフリーアナウンサーとなり、アミューズに所属。現在はNHK『あさイチ』、BS日テレ『歌謡プレミアム』、ABCラジオ・文化放送『私 からだ 上手にやさしくつきあえる毎日を。』などに出演。15年より大阪芸術大学放送学科教授。著書『言葉の温度 話し方のプロが大切にしているたった1つのこと』。趣味はゴルフ、テニス、法螺貝、茶道、書道、ロジックパズル、旅行、食べること(時々作ること)。ワインエキスパート取得。ワンピース:Wild Lily、アクセサリー:Ponte Vecchio
姉妹は平等に
両親と2つ上の姉が1人、典型的な団塊世代の4人家族で育ちました。あまり記憶はないけれど生まれたのは東京で、父方の祖父母と一緒に住んでいました。父の転勤に伴い私が3歳のときに一家で岩手県へ。会社の工場があった関係だと思います。家の裏の土手をソリで滑ったり、三輪車をなぜか後ろこぎしていたりした記憶があります。
父も祖父も趣味で絵を描く人だったのでその影響があったかもしれませんが、お絵かきは好きでした。おままごとのような「ザ・女の子」っていう遊びとかアイドルのポスターを貼ったりということはなかったですね。特に男の子っぽいというわけではありませんでしたが、おてんばでした。
わが家は母の教育方針で姉を「お姉ちゃん」と呼んだことはなくて、お互い下の名前に「ちゃん」付けで平等に育てられました。
そのせいか年上だろうが親だろうが、矛盾していることや納得いかないことに対して「なんで?どうして?」と、聞かずにはいられないタイプでした。明確な反抗期はなかったけれど、親にとっては面倒くさい子だったでしょうね(笑)。
スポーツは好きで、小学校で卓球、中、高はバレーボールを続けました。中高一貫の女子校から早稲田大学商学部へ。指定校推薦で入学したので、学校同士の信頼を裏切ってしまうと後輩たちの道を絶つことになってしまうので、学業はきちんとしつつ、テニスサークルに入ってキャンパスライフも楽しみました。
「言葉のプロ集団」に感動
私たちは団塊ジュニア世代で人が多い上に就職氷河期のはしりでした。企業に資料請求のはがきを送っても男子学生にしか送られてこないような時代でした。そんな就活状況の中、「とにかく面接に慣れることが大事だから業界を絞らず早く実践した方がいい。マスコミが早い」という情報を得て就職課に行ってみるとテレビ局3社の募集要項が出ていました。
なので、アナウンサーを目指して、というよりも「面接日程が早いから」応募したというのが実際のところでした。
書類はありがたいことに通過して面接。原稿を読むテストがありましたが、音読なんて小学校の国語の授業以来です。周りの人に比べて自分でも笑っちゃうぐらい下手でした。それなのに、そんな私にも一線で活躍するスーパープロフェッショナルな方が、真摯(しんし)にアドバイスしてくれるのです。さらに講話を聞いて、「この人たちは言葉の職人だ。どれほど努力したらこうなれるのだろう」と、そのカッコよさに素直に感動しました。
「向いていない」と悩んだ20代
そして幸運なことに頂いた内定。ありがたく頂戴してアナウンサーとして入局したものの、突然上手になるはずもなく、20代の間はずっと「自分はこの仕事に向いていない」と思っていました。もちろん日々の仕事は楽しいんですが、いつまでたってもうまくできなくて。「せめて周りに迷惑をかけないように頑張らなきゃ」「目指して努力していたのにかなわなかった人たちに恥ずかしくないアナウンサーにならなくちゃ」と、何とか必死に踏ん張っていた気がします。
もちろん腰かけで仕事をするつもりはありませんでしたが、そこはやはり昭和の専業主婦の娘。漠然と「自分も寿退社をするもの」と思っていたので、まさかこの年齢まで結婚しないとは思いもしませんでした(笑)。
『ZIP!』で実ったそれまでの苦労
30代後半で朝の情報番組『ZIP!』のニュースキャスターに。毎朝、午前2時に起きて3時に出社です。それだけでもうヘロヘロで、言葉は悪いけれど日々のオンエアをこなすことで精いっぱい。ところがそんな状態でも「さすがベテラン」と言われることがだんだん増えてきました。それ自体はある程度自信になった一方、生放送中にぽろっと返したひと言の自己評価は60点くらい。そのコメントを「さすが」と言われることに対しては複雑な思いもありました。インプット不足で「今の自分は過去の預金を取り崩しているだけかも」という危機感が出てきたり。自信と不安の間を揺れ動きながらも、いろいろな発見がありました。
それまでの十何年間はバラエティーからスポーツ、料理番組といろいろな仕事の同時進行で「頭の中がパニック!」みたいなこともありました。でも、その経験はすべていつの間にか血肉になっていたんですね。
40歳を前に「ようやく表現者、アナウンサーとしてスタートラインに立てたかな」と感じたのもこの頃です。ただ「果たしてこの先いつまでプレーヤーでいられるのだろうか?」と考えた時、「育ててもらった会社には感謝しかない。でも管理職よりまだまだプレーヤーでいたい」と望んでいる自分に気づき、フリーになる道を選びました。
大学生と向き合う
会社員時代といちばん違うのは、やっぱり時間と気持ちにゆとりができたことでしょうか。仕事の幅も広がって2015年から大阪芸術大学で教えています。専門的な学びができる大学なので、具体的な夢や目標を持って入学してくる学生が比較的多いんですね。そういう場合は、そのまま誰にも遠慮せず目標に向かってどんどん突き進んだ方がいいし、応援もします。
でも、明確な目標がまだ見つかっていないとか、今の自分に自信が持てないという学生もいます。私はどちらかというとそちら側にフォーカスして話すことが多いですね。私自身がそうだったから。
アナウンサーも決して目指してなったものではないし、小さい頃から「将来の夢」を書かされるのもすごく苦手でしたから。
山に登ることだけが人生じゃない
山の頂上に明確な目標を定めて、目標に向かって頑張れるのは素晴らしいことです。そこからしか見えない世界があると思うから。でも「頂上目指せ」を強いるのは違うと思うんですよね。山登りだけが人生じゃないし山頂は酸素が薄くて苦しいだけかもしれないし。
遠くの頂上じゃなくて目の前の今やるべきこと、あるいは今やりたいと思うことに集中することもひとつの道だと思うんですよね。
目の前のことを一生懸命やってふと立ち止まって周りを見たら気持ちのいい高原に出ていた、そういう道だってあると思うんですよ。 ただ、どんな道でも壁にぶち当たることはありますよね。学生たちには「壁を押し続けるでも穴を掘るでもいい。休んだっていい。とにかく壁を越えようと諦めないでいる限り、たとえ体が前に進んでいなくても力はついてるから大丈夫。遠回りしても何でも、経験したことは決してムダにならないよ」と話しています。今はピンと来なくても将来、本当に困ったときとか、何か違うと感じたときに思い出してもらえたらいいなと思っています。
趣味がつながる化学反応
会社員を辞めてから、ボイストレーニングと修験道の行者が立てる法螺(ほら)貝を始めました。どちらも体や呼吸を使うのでアプローチや言葉は違うけれど、先生方がおっしゃることが一緒だったり、自分の中で一つになったり、双方がつながって起きる化学反応がすごく楽しいですね。
もともと趣味は多いほうなのですが、ちょっとずつのつまみ食いでも発見がありますし、失敗も含めて一つもムダになりません。経験のすべてが仕事や自分の人間力に関わってきている気がします。
どれも深く追求しているわけでもないし、よくサボりもするんですけど(笑)、結局どれも好きで楽しいので、あくまでも趣味として細く長く続けていきたいなと思っています。
「目の前の1杯」をおいしく飲みたい
ある占い師に「人生のピークは55歳」と言われたことがあるんです。ピークがまだ先にあるのはうれしい半面、人生100年時代に55歳が人生のピークだと思うともう少し先延ばしにする方法はないかなっていうのが目下の課題(笑)。そしてこれからは「何歳まで健康で生きられるか」が大事になりますよね。ゆっくりでもいいから死ぬまで自分の足で歩いておいしいご飯を「おいしいね!」と言って食べられたらいいなと思っています。
私、なんだかんだ小さなことで思い悩んだりもするくせに、結局はいつの間にか忘れちゃうタイプみたいで。何かに迷っても失敗しても、今、目の前にある1杯のビールがおいしく飲めればハッピーなんです。ちなみにゲッターズ飯田さんによると、私の精神年齢は一生17歳なのだそうです。精神年齢は経験を積んでも変わらないんですって(笑)。今はたいして成長していない自分のことも、諦めて受け入れることにしています。面白いことに、「受け入れ力」がアップするほどに人生が楽しくなっています。
(東京都内にて取材)
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