限界の蓋を外してチャレンジ 東京五輪の招致スピーチで輝く
- 谷 真海さん/パラアスリート
- 1982年生まれ、宮城県出身。早稲田大学在学中に骨肉腫によって右足ひざ下を切断。卒業後サントリーに入社し、走り幅跳びでアテネ、北京、ロンドンと3大会連続でパラリンピックに出場。2013年にはIOC総会の東京大会招致最終プレゼンテーションでのスピーチによって、パラリンピアンを代表する存在に。結婚・出産を経て、2016年からパラトライアスロンに転向し、翌年の世界選手権で優勝を飾る。『ラッキーガール』『切り拓くチカラ』(ともに集英社)。
19歳で骨肉腫を発症 人生がガラッと変わった
私は1982年、宮城県気仙沼市で生まれました。病院事務をしている父と、2歳上の兄、日本舞踊を教えている祖母と母の5人家族です。小さいころはよく男の子に間違えられていたくらい、元気な女の子でした。もともと体を動かすことが好きで、5歳で水泳と出合い、5年後には未来のオリンピック選手を育成するための『選手コース』の一員に。「将来はオリンピックに出場したい」と文集に夢を書いたこともあります。
結局、水泳は小学校卒業とともにやめてしまったのですが、のちにオリンピックと同じ、アテネのフィールドに立つことになるのですから、人生は不思議です。
骨肉腫という病気が分かったのは、早稲田大学に入学し、チアリーディング部の一員として、野球部やラグビー部など運動部の応援に情熱を注いでいたころでした。まさか自分が命にかかわる病気になるなんて、ましてや明日を生きるために右足ひざ下を切断する選択をするなんて思いもよらなかった。主治医からは「義足を使えばまたスポーツはできますよ」と言われたものの、「これから私の人生はどうなっていくんだろう…」と、正直、不安でいっぱいでした。
限界の蓋(ふた)を外してチャレンジする
10カ月におよぶ入院生活の末、何とか転移もせずに治療を終えて大学に戻ると、みんなが「おかえり」と温かく迎えてくれ、うれしかった半面、心は晴れないまま。表面的には笑顔でも、以前とは違う自分を私自身が一番感じていたのです。しばらくはすっきりしない状態が続きました。
ただ、「せっかく助かった命なんだから、大事にしなきゃ」という自分もいて。何かしら体を動かし始めれば、また情熱のようなものを取り戻せるのではないかと、障がい者スポーツセンターに足を運びました。
そこで出会ったのがスポーツ義足をつくる義肢装具士の臼井二美男さんです。日本における第一人者で、運よく臼井さんと巡り合ったおかげで、足を失ってから一番難しいと感じていた「走ること」にもう1度トライでき、知らず知らずのうちに自分でつくっていた“殻”を打ち破ることができました。
「限界の蓋を外してチャレンジする」と私は表現するのですが、その信条が生まれたのは、まさにこのとき。「義足で走れるなら何も諦める必要はない!」そこからすごく前向きになりました。
パラリンピアンたちの輝きに魅了された
足を失くして2年後にはアテネパラリンピックの走り幅跳びに出場。「いつかは」と思っていた大舞台に自分が立った経験によって、また人生が前に動き始めました。なぜって、その魅力にすっかりとりつかれてしまったからです。
世界中から集まってくる選手たちは輝いていました。障がいがあることをもろともせず、自分の能力をいかに最大限発揮するか、そこに集中するのみ。足を失ったことに対する耐え難い思いに時折押しつぶされそうになっていた私には、その姿がまぶしいほどカッコよかった。みなさんのポジティブな熱に救われ、「自分もこうやって生きて行こう!」と、そこから仕事にも競技にもより一層前向きになり、「次のパラリンピックにも行きたい」と目標を新たにしました。
もちろん“4年後”を目指すのは簡単ではありません。何年も記録が伸びずジレンマに陥った時期もあります。それでも「もうここが限界かな」という思考をやめ、どこかで壁を突き抜けられると信じて、「もう一歩先に」という気持ちを持ち続けた。それができるようになったのは、やはり病気がきっかけだと思います。
この生き方をしてきてよかったんだ!
その後、北京大会、ロンドン大会にも出場。病気をした19歳から30歳まで、手探りでしたが自分で道をつくり出し、懸命に歩いてきました。
そして、31歳の年(2013年)、東京オリンピック・パラリンピックの招致活動にかかわることになったのです。IOC総会の最終プレゼンテーションで、無我夢中の10年間を振り返り、自分がスポーツの力に救われた経験を笑顔でスピーチできたとき、「私の生き方は間違っていなかったんだ」と、ようやく自分を肯定することができました。
実は、この活動を通して知り合った男性と翌年結婚、旧姓の佐藤から谷へ。そして男の子を出産。
しばらく競技を休んだことをきっかけに、瞬発系の走り幅跳びから今度は持久力系のトライアスロンに転向しました。どうせならパラリンピックにある種目をやってみようと思ったなかで、泳ぐ・自転車・走るという3種の組み合わせを身近に感じたからです。私が小学生のとき、選手コースまで進んだ水泳、中学・高校でやっていた陸上長距離を生かせて、あとは自転車に乗れない人はいないというのが理由です(笑)。それをまた、自然のなかでできるところがこの種目の魅力で、やりがいが大きいと感じました。
東京パラ大会1年延期。最大の正念場だった
しかし、東京大会では予想外の壁が立ちはだかりました。まず、トライアスロンでの出場をずっと目指してきて、夢がようやく目標に変わってきた2018年に、「あなたの義足のクラスは東京大会では開催しません」という発表があり、いきなり道を閉ざされたこと。これは、私を含めさまざまな人の働きかけでルールが変わり、より軽い障がいのクラスでなら出場が可能になりました。
裏を返せばより過酷なチャレンジになったわけですが、不利な戦いであっても、「ゴールを目指して走り続けてみよう」と気持ちを立て直すことができました。
ところが、コロナ禍が重なり、今度は開催直前で1年延期が決定。選手にとってその1年は長く、正直、競技を続けるか悩みました。「でも、それで本当にいいの?」と自分に問うクセがついていたのですね。夫も、息子も、「もう無理しなくていいよ」と言ってくれるなか、コロナ禍で家族との時間が増えたことで心身ともにリカバリーできたのも、出場を諦めなかった理由の1つです。
だからこそゴールそのものが感慨深かった。結果こそふるいませんでしたが、最後は笑顔でゴール!「よくがんばったね」と迎えてくれた家族の存在も大きく、言葉にならない感動に包まれました。もちろん私だけでなく、選手1人1人にいろんなドラマがあったと思います。
次に目指すのはパリ大会?
一昨年、第2子を出産し、現在はまたトレーニングを再開したところです。この先、どこまで行けるのかは自分でも分かりません。もちろん、パラリンピックの出場レベルまで記録を戻せたら、次のパリ大会を目指したい気持ちもあります。難しい選択ですが、諦めたらそこで終わり。できる限りの力を尽くして、まだ見ぬ感動を味わえたらと思います。
トライアスロンは世界的にもママでチャレンジしている選手が多く、同じクラスで競っている仲間のなかには年上の方もいて、それがとても刺激になっています。
また、自然のなかで行うスポーツなので、「今、自分は生きている!」と実感できる。海で泳ぎ、普段は走れない車道を自転車やランで走りながら、いろんな景色を味わえて、なんてぜいたくな競技なのだろうと思います。
つらいときでも笑顔に スポーツの力を感じた
2011年の東日本大震災で、宮城県気仙沼市の実家が被災。津波で1階が天井まで浸水しました。幸いにも家族は無事でしたが、安否が分かるまで1週間、生きた心地がしませんでした。
それ以来、気仙沼出身のパラリンピアンとして子どもたちに元気を届けたいと、何度も気仙沼に通い、あらためてスポーツの力を感じることができました。
家、家族、友達、学校…震災でいろんなものを失ってしまった子どもたちにどんな言葉をかけたらいいか、最初は悩みました。私も義足になり、大事なものを失った喪失感は1年や2年じゃなくならないことを経験的に知っていたので、町の惨状を見るに、何を言っても心に届かないのではないかと思ったのです。
だからといって、じっと耐えてがまんするだけでは道は開けない。そういうときこそ自分がやりたいことを見つけ、勇気を持って一歩を踏み出してほしいと伝えました。
そして、一緒に縄跳びをしたり、走ったり、エクササイズをしたり。すると、子どもたちが自然と笑顔になっていったのです。お別れする時間には表情がとても明るくなっていたのが印象的でした。これは私の経験からもいえることですが、つらいときこそ笑顔でいると、気持ちが勝手に前向きになります。IOCのプレゼンテーションでは、このとき感じた「スポーツの力」について笑顔で訴えました。
私の場合は、ちょっとした悩みがあっても、軽くジョギングすると、「なんだ、全然たいしたことなかったな」と、ポジティブな思考で走り終えることが多いです。さらに、身体を動かすことでお腹がすいてご飯がおいしく、ほどよく疲れて熟睡できるので、翌朝は頭もすっきり。みなさんにもおすすめです。
今は時間があれば、自分の子どもともスポーツを楽しんでいます。そのなかで、たとえ人生に何が起こっても諦めないことの大切さを伝えられたらと思っています。
(東京都千代田区にある事務所の一室にて取材)
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