「アトムに魂が入った!」 手塚先生は私の手を握りしめた
- 清水 マリさん/声優
- 埼玉県生まれ。中学1年のとき、父・清水元さんが主宰する表現座でピノキオを演じたことがきっかけで演劇に興味を持つ。高校卒業後、俳優座の養成所を経て俳優座の衛星劇団・新人会に入団。1963年、日本初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』でアトムの声に抜擢され、その後40年アトムの声を演じ続けた。ほかに『妖怪人間ベム』(ベロ役)、『ジェッターマルス』(マルス役)、『宝島』(ジム・ホーキンズ役)などに出演。著書に『鉄腕アトムと共に生きて―声優が語るアニメの世界』がある。
父は黒澤映画の常連俳優だった
私は1936年、埼玉県浦和市(現さいたま市)に生まれました。父は清水元という舞台役者、母は初音。この両親の第2子として生まれました。4歳上の兄がいます。
物心がついたころは戦争中で、父は軍隊の慰問演劇団の一員として全国を回っていました。戦争が終わると舞台だけでなく映画にも活動の場を広げ、黒澤明監督にかわいがられて、黒澤映画にもよく出ていました。
しかし、父は悪役が多く、主役をいじめて最後は殺される役ばかり。映画を見た同級生が「お前の親父ぐらい悪いのはいない」と言うのです。私は「お父さんはいい人だ!」とがんばったのですが、聞く耳を持ってくれませんでした。
その話が聞こえていたのか、あるときから、絵が得意だった父が紙芝居をつくり、小学校の生徒に見せてくれるようになったのです。それがきっかけで「お父さんの紙芝居は面白い!」とほめられるようになり、いじめもぴたっとなくなりました。
父が役者だと先生もわかっていたので、学芸会などではいい役をくださる。自分としてはちょっと得意になって、中学校でも演劇部に飛び込み、芝居をやっていました。
舞台俳優の傍ら外国映画の吹き替え担当
中学1年生のとき、プロの役者に交じって舞台に立つ機会が訪れました。父が「表現座」という劇団を主宰しており、子どもたちに『ピノキオ』を見せようとなったことがあります。ところが、劇団員は大人ばかり。ピノキオ役をやる子役がいないということで、私が演じることになったのです。
それで私も本気になり、高校でも演劇をやって、卒業後は俳優座の養成所を受けたのですが、そのときになって父が猛烈に反対し始めました。「この世界に入ってもお前が苦労するのは目にみえている。今のうちにやめておけ」と言うのです。
でも、受かってしまった。1500人ぐらい受験したなかで合格したのは40~50人。私もそのなかにいたのです。同期生には水野久美さん、山本學さん、井川比佐志さん、田中邦衛さんらがいます。
それから3年間演劇を勉強し、俳優座の衛星劇団「新人会」に研究生として所属することになりました。そのころ、新劇の俳優に外国映画の吹き替えの仕事がくるようになり、私も声優の1人として加わることに。声が高いので、当時から子どもの声を担当することが多かったのですが、そんなとき、突然、「『鉄腕アトム』の声をやってくれませんか?」とオファーがきたのです。
初の国産アニメ 「アトムに魂が入った!」
それは日本初のアニメーションのパイロット版(試作映像)ということでした。漫画をまったく読まない私は、あわてて本屋さんに行き、『鉄腕アトム』の予備知識を頭に入れて、収録に臨みました。
アトムの誕生シーンを録るにあたり、手塚治虫先生からは「小学5年生ぐらいの男の子のつもりでやってください」というご指示。「お・と・う・さ・ん」と言った声を聴いた先生は、「アトムに魂が入った!」と大喜びで、私の手を力強く握ってくださいました。
しかし、その後、フジテレビで放送されると決まったものの、私への連絡はなし。アトム役のオーディションも行われていると聞き、やはり私の声ではダメだったのかと気落ちしていたのです。ところが、放映ぎりぎりになって「私でいく」という知らせが届きました。先生がどうしても私にやらせたいと、推してくださったのだそうです。
放送初日は1963年1月1日。その日の午前中までアトムの収録があり、家に飛んで帰って家族でアニメを見たあとのことです。あれだけ反対していた父が、「いい番組についたな。これはお前の宝になるぞ!」と、役者になることを認めてくれたのです。折しもその日は父の誕生日であり、手塚先生が私につけてくれた芸名「清水マリ(本名は清水鞠)」が誕生した日でもあります。私にとっては生涯、忘れられない1日になりました。
アトム人気は最高潮 同時にコウノトリが…
しかし、アトムに声を吹き込む仕事は思いのほか大変でした。アニメの口パクに合わせて台詞(せりふ)をはめ込むのですが、外国映画の吹き替えとは勝手が違い、しゃべりのきっかけになる英語もフランス語も聞こえてきません。このタイミングが難しく、最初はNGばかりでした。
もっとも大変だったのは、録音テープを途中で切れなかったことです。誰かがNGを出すとまた最初からやり直し。台本をめくるパラパラという音が入ってもいけないのです。全員が緊張するなか、30分番組をミスなく最後までやり通すのに、8時間かかることもざらでした。
そんな声優陣の苦労とは関係なく、『鉄腕アトム』はものすごい人気になり、視聴率もうなぎのぼり。当初2年間だった放送予定が4年に延びることになりました。ちょうどそのとき、コウノトリが子どもを運んできたのです。私にはすでに夫がおり、「放送期間の2年は子どもをつくりません」と約束していましたが、まさか放送が延長になるとは…。これからが正念場だけにテレビ局も大慌て。産むか否か私も迷いました。けれども、最後は夫の「自分の生きた証として産んでほしい」の一言で出産を決意しました。
アトムの声の代役に全国から電話が殺到
代役を務めてくれたのは、俳優座の同期で仲良しの田上和枝さん。声もよく似ていて、違いがわからないほどでしたから、「私はこのまま復帰することなく、子育てに専念することになるだろう」と、逆に諦めがついたのです。
ところが、「アトムの声が変わった」と全国の子どもたちから抗議の電話が殺到。結局、出産後1カ月もたたずに現場に復帰することになりました。
アトムの声を続けられるのはうれしかった半面、仕事と育児の両立はそれなりに大変でした。収録日は家政婦さんを頼むのですが、週1回程度だと同じ人が来ないのです。毎回一から説明が必要でした。また、1時間いくらでその日に現金で支払うので、収録が長引くとそれこそ大変(笑)。ギャラより家政婦さんの代金のほうが高かったことも少なくありません。生活も決して楽ではありませんでした。
だからといって後悔はありません。4年間の白黒放送が終わったあと、別の局で始まったカラー版の『鉄腕アトム』にも起用していただき、その後もCMやさまざまなイベントでもかかわって、2003年まで40年間、私はアトムとともに二人三脚で生きて行くことになるのです。
美しいオーロラに感動 もうくよくよしない!
2003年4月7日のアトムの誕生日に、新しい声優さんとバトンタッチすることが正式に決まりました。『アストロボーイ 鉄腕アトム』がアメリカで放映されるタイミングでもあり、手塚プロとしては「変えないでいきたい」という意向があったものの、諸事情によりここで終了となったのです。世間的には私の声が出なくなったからとのうわさもありましたが、実際はそうではありませんでした。
バトンタッチの話を聞いて数カ月は、さすがに寂しく思っていました。さらに夫の病気がわかり、すっかり意気消沈していたのです。そんなとき、年下の友人から「北欧にオーロラを見に行こう」と誘われ、思い切って行ったところ、気持ちがすっきりしました。帰国前夜、突如あらわれ、虹のように何色も重なる見事なオーロラを見ながら、涙が止まりませんでした。そのとき、「大自然のなかではちっぽけな存在である自分が、こんなことでくよくよするなんてバカバカしい!」と心底思えたのです。
そうはいっても、いまだにアトムとの縁が切れたわけではありません。『アストロボーイ』のヒットでアメリカやカナダのイベントに呼んでいただくこともあり、今もアトムが背中にいるような感覚です。自分の部屋にもアトムグッズをたくさん飾っています。目覚めると視界にはいつもアトムがいて、「よう!」と声が出てしまいます(笑)。
五つの朗読教室で月に10回は発声練習
現在は、アトム関連の仕事のほか、朗読教室で指導・演出をしています。
アトムのあと、『妖怪人間ベム』のベロ役や、『ジェッターマルス』のマルス役、『宝島』のジム・ホーキンズ役などをやってきましたが、40歳ぐらいから再び舞台に立ちたいと思うようになり、朗読劇を始めたのです。
それがきっかけで、地元の公民館などから「朗読を教えてください」とお話をいただき、発声から教えるうちに、五つの朗読教室をつくるに至りました。それぞれ月2回の稽古がありますので、月に10回は大声で発声練習をしています。2年に1度は五つの教室の生徒さん(約60名)が一堂に会して発表会も! そのせいか、地声が大きいままで、夏に窓を開けて電話していると、息子が帰ってきて、「お母さんの声が向こうの道まで聞こえているよ!」と、怒られてしまいます(笑)。
仕事以外にも陶芸をやったり、機織りでショールをつくったり。最近は、携帯ゲームなども楽しんでいます。今は息子家族と暮らし、孫が2人。下の子は今年宝塚音楽学校に入学しました。いろいろなお付き合いもあって、日々忙しくしていることが私の健康の秘訣(ひけつ)でしょうか。この先も、楽しみは尽きません!
(渋谷区にある声優ミュージアムにて取材)
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