87歳の現役社長! 「赤ちゃん110番」を世に出したベンチャーの母
- 今野 由梨さん/ダイヤル・サービス株式会社 代表取締役社長
- 1936年、三重県生まれ。「赤ちゃん110番」「セクハラ・ホットライン」などの電話相談サービスを世に送り出してきたダイヤル・サービスの創業者。64年、世界博覧会のコンパニオンとして、ニューヨークに滞在した際、電話を使った新ビジネスのヒントをつかみ、69年に同社設立。法規制と闘いながら、時代のニーズに応える数々のサービスを立ち上げる。2007年、旭日中綬章を受章。若手起業家への支援も積極的に行い、「ベンチャーの母」「国境なきお母さん」として、アジアのリーダーたちからも慕われている。
幼少期に東京で見た別世界
1936年、私は三重県桑名市で6人姉妹の次女として生まれました。子どもの頃の写真を見ると、長女・三女・五女の奇数組は手足が長くスタイルがよかったのに対して、私は大きな頭と大きな胴体を2本の短い脚で支えていた完全な5頭身(笑)。運動も苦手でした。その代わり、学校の成績はよかった。それもほかの姉妹と比べて飛び抜けてよかったのは、幼い頃、東京・荻窪に住む叔父の養女になりかけた経験があったからです。
叔父はある大手鉄鋼会社の役職に就いており、家の向かいには当時の総理大臣・近衞文麿のお屋敷がありました。
もちろん私は何も知らずに東京に連れてこられたのです。しかし、それまでのにぎやかな大家族、地方の温かい地域社会のなかで育った私にとって、外に出ても遊ぶ友達が誰もいない暮らしは苦痛でしかありませんでした。叔父が仕事に行くと、広い家には叔母が1人だけ。寂しさのあまり「家に帰りたい!」と朝から晩まで泣き叫んでいました。
すると、見かねた叔父が、私を連れて出社するようになったのです。
大きなホールのような職場にはらせん階段がありました。運動は苦手でしたが、歌や踊りは生まれつき上手だった私は、大スター気取りで歌いながら、踊りながら、階段を下りてくるという遊びに夢中になっていました。社員の皆さんには迷惑なことでしたが、叔父の手前、誰も私を怒らなかったので、楽しかった記憶しかありません。
総理大臣との思い出 人は経験でつくられる
休日には鉄鋼業界のドンと呼ばれる方々との交流もあり、大企業のお兄さん、お姉さんの仕事ぶりもそれとなく見て。さらには、近衞文麿邸の庭で、何度となく総理大臣に遊んでいただいたこともありました。
そんな経験をした姉妹は1人もいません。同じ家に生まれたといっても、経験がまったく違うのです。人というのは経験でつくられる生き物だと、あらためて思います。
結局、母が私を取り戻し、私は桑名の家に戻ることになりました。
唯一困ったのは、小学校に上がったものの、勉強する気がしなかったことです。なぜなら、小学校で習うようなことは、すでに叔父から教わっていたからです。先生の授業も退屈で仕方ない。宿題もしない。そんなことに時間を使うより、近所の悪ガキと一緒にあちこち走り回るほうがよほど楽しかったからです。
猛火のなかを逃げ、9歳の私は一度死んだ
しかし、それも束の間、戦争が始まると、日本は同じ国とは思えないほど変わってしまいました。桑名の町も大空襲を受け、ある晩、一夜にして灰になってしまったのです。
町中が音を立てて燃え上がる猛火のなかを、9歳だった私は家族とはぐれて1人逃げ、おそらく一度死んだのだと思います。ずいぶん時間が経って、気が付くとまったく見ず知らずの男性に背負われていました。
その男性は安全なところまで私を運ぶと、道の先を指さして、こう言いました。「ここをまっすぐ行くと、大きな金龍桜の木があるから、そこに登りなさい。明け方まで降りてはいけない。夜が明けたら両親が迎えに来るから、絶対に動かないで」
私は言われた通り桜の太い枝に登り、桑名の町が燃え尽きていくのを瞬きもせずに見ていました。
そこで思いをはせたのは、生まれてからこの町で一緒に暮らしてきたたくさんの生き物たちです。イチョウの巨木をねぐらにしていた何千羽ものコウモリ、神社やお寺の池に住んでいた魚やおたまじゃくし、石垣のヘビたち…。彼らはどうなったんだろう。業火に焼かれて死んでしまったのだろうかと、夜明けまで彼らのことばかりを思い、泣き続けました。
そして、固く心に誓ったのです。「大人になったら、絶対にアメリカに行って、今夜のことを話す。何の罪もない、何百種類もの生き物を殺すような戦争は二度としないでと訴えるんだ!」と。
夜が明けると本当に両親が迎えに来てくれ、私はまた家族と再会できましたが、私にとって、その日は第二の人生の始まりの日でもありました。そして、アメリカに苦言を呈し、弱き命のために生きることが、私の使命となりました。終戦を迎えたのは、そのわずか2週間後のことでした。
就活で全落ちしてもありがとう
自分の使命を果たすためには、桑名の町でのんびり生きていてはいけない。東京の大学へ行って勉強し、そこを足場に何とかアメリカに渡りたいと思っていましたが、それが許される時代ではありませんでした。
アメリカへ行くどころか、女が東京の四年制大学へ行くなんてとんでもないこと。両親も先生も大反対でした。でも、思いは必ず実現するのです。最後は、「受験するのは1校だけ」と父を説き伏せ、津田塾大学を受験。桑名市から女性で初めて東京の四年制大学に進学しました。
ところが4年後の就職活動は全敗。1958年当時、私を雇おうという企業は何とゼロでした。
それでも、「起こったことには必ず意味がある」と私は皆さんに伝えたいのです。それが自分にとって不本意で納得できないことであっても、あとから「あのことがあったおかげで、今がある」と分かるはずだからです。
私もそうでした。面接官たちに「仕事をするのは男。君が仕事をするわけじゃない。しかし、君は『タバコを買ってきて』『お茶』と言われて素直に『はい!』と言えないだろう?」と言われ、許せませんでした。しかし、あのときたった1社でも私の採用を考える企業があったら、今日の私はいないのです。40万人の子どもたちから電話相談を受けた「子ども110番」もありません。
完全に男社会から締め出されたおかげで、私は「自分で会社をつくるしかない。10年後の今日、必ず会社を興してみせる」と決意できたのです。
あのときの… 米軍兵士との出会い
起業に向けて動き出した私は、1日を4部制に分けて働くことにしました。早朝の部は産経新聞の記事を書き、午前の部は作家の曽野綾子さん、三浦朱門さんご夫妻の助手をやり、午後の部は今のTBSテレビで始まった日本初のルポルタージュ番組で企画から取材、インタビュアーを、深夜の部は「歌声喫茶 ともしび」のステージの演出を担当。これは大学3年間、大学新聞の編集長を務めたことが大いに役立ったと思います。
そんなある日、ニューヨークで戦後初めての万国博覧会が開かれることになり、女性コンパニオンに応募した私は、これまでの履歴から、日本館の広報委員兼コンパニオンとして、渡米することになったのです。
「これでやっと、9歳のときに誓ったアメリカに行ける!」と思った私に、さらに信じられない奇跡が起こりました。
渡米後、アメリカのメディアの重鎮から取材を受けたときのことです。その男性は車椅子に乗っていて、開口一番、「あなたは日本のどこから来ましたか?」と聞くので、「名古屋と四日市のちょうど真ん中の、桑名…」とまだ言い終わらないうちに、バネ仕掛けの人形のように車椅子から飛びかかって、私に抱きついて、「よく生きていてくれた!」と言うのです。そして、「あの晩、あなたの町に爆弾を落としたのは、自分です」と、告白を始めました。
彼はその後アメリカに戻り、元いた世界で出世し続けたものの、毎晩、爆弾を投下するレバーを引く夢を見たそうです。大勢の命を奪ったその感触を手が忘れていなかったのでしょう。罪の意識のあまり、ついに下半身不随になったといいます。
私は計画通りにあの晩に起きたことを彼に話しました。すると、「今日からあなたの使命を私が半分受け継ぎます」と、1年かけて、私をアメリカ中の偉い人の集まりに連れていってくれ、紹介してくれました。そして、彼が新聞の一面で私を取り上げてくれたことがきっかけで、アメリカ中に応援者が増え、日本で最初の女性だけのニュービジネスを始めるヒントも得ることができたのです。
それから数年間、欧州の企業を視察して帰国。きっちり10年後の1969年、5月1日、女性ベンチャー第1号として起業することになりました。
余命宣告を受けても死ぬヒマなんてない!
71年には日本で初めての電話相談サービス「赤ちゃん110番」を立ち上げ、子育てに悩む全国のママから救いを求める相談が殺到。電話回線がパンクするほどでした。以降、「子ども110番」「メンタルヘルス・ホットライン」など、各種相談へのコールは延べ1250万回を超えています。
創業以来、一般生活者の悲痛な声に耳を傾け、手を差し伸べ、心に寄り添ってきましたが、実は私自身、医師から何度も余命宣告を受けています。どのお医者さんも「あなたは悪性末期がんで、余命1、2カ月です」とおっしゃいます。でも、大きな使命を受けて仕事をする私には、死んでいるヒマなんかない!!手術はおろか治療も受けず、薬も飲みませんでした。社員にも家族にも病名を言わず、ひたすら仕事をしてきました。
それでも、87歳の今も私は生きています。特別なことも何もしていないのに「なぜ?」とよく聞かれますが、私の答えはいつも同じ。「私には死んでいるヒマなんかない!」。この先も与えられた命を使って、自らの使命をまっとうするために明るく元気に前向きに生きていく。ただそれだけです。
(東京都内のダイヤル・サービス本社にて取材)
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