「役者は普通でいい」(宇野重吉)… 『おはなはん』で国民的女優に
- 樫山 文枝さん/女優
- 1941年生まれ、東京都出身。高校卒業後、 俳優座養成所を経て、63年、劇団民藝に入団し、俳優活動をスタート。64年、舞台『アンネの日記』の5代目アンネ役で初舞台。66年、NHK連続テレビ小説『おはなはん』のヒロインに抜擢され一躍人気女優に。NHK大河ドラマ『天と地と』、映画『男はつらいよ』など出演多数。民藝の看板女優として今も舞台に立ち続ける。9月22日(金)〜10月1日(日)紀伊國屋サザンシアターで上演の『ローズのジレンマ』に出演予定。
父を中心とした家庭 昔の映画のよう
私は昭和16年、太平洋戦争が始まった年に4人きょうだいの3番目として生まれました。父(哲学者・元早稲田大学教授の樫山欽四郎氏)は大学に勤めていて、帰宅すると真っすぐ書斎へ。きちんと正座して和机に向かい、学生さんの答案に目を通したり、自分の論文や本を書いたりしていました。どんなときも端正で寡黙な人でした。
父は食事をするときも正座したまま。家族もみんな黙って食べていましたね。明治の人ですから礼儀には厳しかったと思います。ただ、そういう父だからといって、私たちが窮屈だったかというとそうではなく、きょうだいで仲良く遊んだり、けんかをして泣いたり、伸び伸び育ちました。
一方の母は、4人の子どもを育てながら気難しい父の世話をし、家に訪ねてくる学生さん、お弟子さんへの応対もしていましたから、本当に大変だったと思います。もんぺ姿で家事に明け暮れ、暮れともなると鬼気迫る顔で正月を迎える準備をしていました。
大掃除は子どもたちや父も手伝い、家族で一斉に家を整えていきます。最後は決まって床の間に父の好きな壺を飾り、水仙の花を挿すのですが、その途端、室内が静かな冷気に包まれるように感じました。今でも暮れになると、その凛とした佇まいを思い出します。
元旦はお雑煮、2日目は「おとろ」をいただくのが習わしでした。父の出身・信州の郷土料理なのでしょうか、子どもたちが大きなすり鉢で山芋をすり、そこにだしを入れてのばします。薬味はゆずの代わりにみかんの皮を薄く切ったものと、おねぎとわさび。ささやかですが、必ず家族そろって食卓を囲んでいた当時の様子を思い出すと、昔の映画を見るようでもあり、とてもいい家庭だったのかなと思います。
おてんばだった少女時代 親に自立を促された
小さい頃の私といえば、かなりのおてんば少女でした。家は吉祥寺にあり、周囲は林と畑だらけ。近所の子どもたちを引き連れて林を駆け抜け、隣の塀を伝い、自分の家の木に飛び移って冒険ごっこをしたこともありました。
素直だけど無鉄砲できかん坊。「きょうだいの中で一番親に怒られて、一番泣いていた」と妹が言うのですが、今考えると、私は下から2番目の子で、すぐ下に妹が生まれ、もっと親の愛が欲しかったのかもしれません。
ところが両親は決して甘やかさず、私が我を通すために泣きわめいても知らん顔。それどころか「泣きなさい、もっと泣きなさい、もっと大きな声で」と言います。そのうちにこちらが根負けしてしまうのが常でした。
小学校に上がってからは、「自分で考えなさい」と言われることが増えました。悩み事の相談には乗ってくれるのですが、最後は決まって「自分で解決しなさい」と。そんな親を冷たいと思うこともありましたが、自立心が芽生えたのもたしかです。
中学生で演じた『夕鶴』 女優を目指すきっかけに
「樫山さんが女優になろうと思ったきっかけは何ですか?」とよく聞かれます。遠因は、幼い頃、母が毎晩のように枕元で読んでくれた物語ではないかと思います。
自然と物語が好きになり、子どもの頃の遊びでも、雪柳の枝で冠を作ってお姫様になったり、怖い話を自分で戯曲風にして友達の前で演じたり…。ファンタジックな物語の世界に浸ることが純粋に楽しかった。
また、早稲田大学の童謡研究会というのがあり、近くの女学校に週1回、学生さんが教えに来て、歌や踊りの楽しい世界を体験させてもらいました。
転機が訪れたのは中学3年生のとき。演劇部の先生が木下順二さんの戯曲『夕鶴』の主人公”つう“に私を抜擢してくださったのです。人間の俗な精神に対するつうの純粋な心が好きでたまらず、そこから演劇への道筋がつながりました。あのとき先生が私を主役にしてくださらなかったら、今の自分はいません。
宇野先生に全身全霊で怒られ、どん底に
それからは演劇一筋。高校在学中に俳優座養成所を受け、卒業と同時に研究生に。そこで3年間勉強して劇団民藝に入りました。
民藝は「多くの人々の生きてゆく歓びと励ましになるような」民衆に根ざした演劇芸術をつくり出そうと、1950年に旗揚げされた劇団です。私が入団した当時は滝沢修先生や宇野重吉先生が主演・演出を務めていらっしゃいました。
宇野先生に最初に言われたのは、「役者は普通でいい」。俳優座養成所では、才能豊かでキラキラした人たちが個性をむき出しにし、ライバル同士の戦いを繰り広げていましたから、私は自分の普通さ、平凡さに辟易(へきえき)していたのです。それが民藝では「役者は普通の人を演じられなければ娼婦も狂人も演じることはできない」という教えで、それを聞いて「ここに入って本当によかった」と思いました。
しかし、苦労はそこから。思うような芝居ができないと、宇野先生に全身全霊で怒られるのです。そして、「悪いのはおまえだ。人のせいにするな」と突き放される。どん底に落とされ、打ちのめされ、「私には生きている価値がないんじゃないか」と思うことすらありました。でも、実は怒るのは怒られるよりエネルギーが要るのです。それに、周りを見ても、先生に厳しくされる人はどんどん伸びていく。私も苦しかったけれど、なにクソと思ううちに打たれ強くなり、大役をいただけるようになりました。
『アンネの日記』のアンネ役に抜擢された時は、うれしくて、家への帰り道も大声で台詞(せりふ)の練習をしたものです。
きらめく舞台の上だけが仕事ではない
私にとっては地方公演も楽しみの一つです。舞台背景のセットは全員で組み立てるのが劇団の伝統。その舞台で主役を演じていた人も、終演後は作業着に着替え、トンカチを腰にぶら下げて舞台のセットをバラし、トラックに積み込んで次の地へ。私も若手時代はもちろんやっていました。
新人で慣れないうちは支度に手間取り、舞台化粧を落として着替えて出ていくと、宇野先生がストップウォッチを手に持っていて、一言「遅い!」と(笑)。でも、すごく爽快でした。「みんなで汗を流しながら一つの作品を作り上げていく劇団に、私はいるんだ」と思うことがうれしかったのです。
また、役者は大都市公演で舞台に立つだけが仕事ではありません。生の芝居をあまり見たことがない人、私たちを待っていてくださる人のところへ行き、そこでいただくお客さまのエネルギー、感想も活力になります。コロナ禍では地方公演が次々中止になり、「生で芝居が見たい」「そこで涙を流したい、喜びたい」という声をたくさんいただきました。
私たちの仕事は人の生きる力になれるんだと、コロナで閉じ込められた故に、かえって実感することができました。
『おはなはん』に合わせて、祝電が
ところで、全国の皆さんが私を知ってくださったのは、NHKの連続テレビ小説『おはなはん』(1966年)ではないでしょうか。
あの時代は娯楽も少なく、老若男女問わずテレビが一番の楽しみでしたから、反響もすごかったですね。地方にロケーションに行けば、出演者を一目見ようと黒山の人だかりに。泊まった宿の周りにも大勢人が集まり、屋根まで振動するような大騒ぎになりました。
途中からは段ボールいっぱいのファンレターがNHKに届くように。それだけでなく、ドラマの中で子どもが生まれれば祝電、主人が亡くなれば弔電が届くのです。まるで実話のように見てくださる方が多いことに驚きました。
当時、名優と呼ばれる方々がたくさん出ていたドラマに参加できたことも、大変貴重な経験だったと思います。私は無名の新人で、とにかく必死でしたから、物おじする暇もありませんでした。それも若い、ナイーブな時期だから、先輩方の演技やたたずまいなど、吸収できるものは全て吸収して。今考えても非常にぜいたくな1年間でした。
次なる舞台は樫山文枝のジレンマ?
今年の9月に民藝で上演する『ローズのジレンマ』では、夫を亡くした人気流行作家という役どころで、愛する人に執着し、幽霊となった夫と5年間も付き合いながら、自分の人生を生き切る大切さに気付くというお話です。ちょっと大人のファンタジーですね。
実生活でも、実は2年前に夫(俳優の綿引勝彦氏)を亡くし、主人公と自分が重なります。それこそ『樫山文枝のジレンマ』です(笑)。
夫はもともと民藝の後輩で、共通した芝居の話ができて、必ず舞台の初日に見に来てくれました。ローズの台詞に「彼の感想を聞きたくて(小説を)書いていたようなものだから」という台詞があるのですが、私も彼の(舞台の)感想は聞きたいと今も思います。
この年になって初めての1人暮らしは寂しいし、大変。でも、かつて『静かな落日―広津家三代―』で私が演じた広津桃子の父、広津和郎さんが書かれた『散文精神について』の一節「みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通す」に共感し、筆でしたため、常にそのことを思いながら生活しています。食事・睡眠はしっかりとる。散歩をして体に空気を入れる。悲しい気持ちになったら新聞を大声で読む。ためこまない。誰かを頼りたいし甘えたいけど、1人を生き抜く。「1人はにぎやか」という言葉もありますが、そんな心境でいられたらいいですね。
(劇団事務所にて取材)
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