「一番大変なのは、ママ」夫の言葉に家族が一致団結!
- 山口 もえさん/タレント
- 1977年生まれ、東京都出身。17歳でCMデビュー。『マツモトキヨシ』のCM「なんでも欲しがるマミちゃん」役が話題になり、バラエティー番組、ドラマなどで活躍。2007年に長女、11年に長男、17年に次女が誕生。夫は爆笑問題・田中裕二さん。ホリスティックビューティアドバイザー、野菜ソムリエプロなどの資格を持つ。ラジオ番組『ふんわり』(NHKラジオ第1・月曜〜金曜8:30〜11:50)の月曜日に出演中。子育ての悩みを専門家に伺うコーナーなどを届けている。ワンピース:ワッカ、イヤリング:1DKジュエリーワークス、スタイリスト:濱中 麻衣子、ヘアメイク:HIROKO(secession)
引っ込み思案の少女が芸能事務所と出合った日
私は、祖父母がつくった仏壇仏具屋の次女として、浅草で生まれました。幼いころは、いつも母の後ろに隠れているような子どもで、当時を知る方は、「引っ込み思案のあのもえちゃんが、テレビに出るなんて!」と驚いたそうです。とにかく人前に出るのが苦手で、小学校の学芸会でも『さるかに合戦』で最初に猿に柿を当てられて死んでしまう蟹の役とか、台詞(せりふ)のない役をやっていました。
ただ、習い事は大好きで、水泳、ピアノ、お琴、クラシックバレエ、作文教室、書道と、月曜日から土曜日まで毎日埋まっていました。そのなかで一番長く続いたのはクラシックバレエです。けれど、高校1年生のとき、男の子と2人で踊るレッスンで、相手役のピチピチのレオタード姿に違和感を覚えてしまい、思春期だったこともあってバレエはやめてしまったのです。
その代わりにダンス教室を探していたところ、たまたま無料のダンスレッスン教室で生徒を募集していた今の事務所に出合いました。“無料”に惹かれて門を叩いたものの芸能事務所だと分かり、帰ろうとしたのですが、偶然そこに社長がいて、「芸能に興味がなくても、レッスンだけ受けていいですよ」と言ってくださって。一緒にいた母も「だったら通ってみたら?」と後押ししてくれ入ることになりました。
お味噌のCMに初出演 お土産に家族が喜んだ
最初の1年は本当にレッスンしか受けていませんでした。でも、まわりの友達の「私、今度このCMに出るの」「私はあのドラマに出るよ」という話を聞くうちに、楽しそうだなと思うようになりました。それで、事務所の方に「私も何かオーディションを受けてみたいです」と話したのがきっかけで、最初に受かったのがお味噌のCMでした。
撮影に行くと、帰りに赤だし、白だし、合わせ味噌、豆乳製品などたくさんのお土産をいただき、それをまた家族が喜んでくれて、「なんていい仕事なんだ!」と。われながら、無料に弱いと思いつつ(笑)、CMモデルをするようになったのです。
ドラッグストアCMで全国区のタレントに
その後は事務所のすすめでアイドルみたいなこともしつつ、CMに出るようになりましたが、大学生になるとオーディションに行っても落ちてばかりの日が続くように。大学3年生にもなればまわりは就活を始めて、将来のことを真剣に考えているのに、私は何をしているのだろうと…。自分のなかでは「暗黒の時代」でした。でも、「今はただ目の前のことに向き合い、真面目に授業に出て単位を取るしかない」と、3年間ですべての単位を取りました。
すると、それを待っていたかのように、あるCMのオーディションに合格。みなさんが私を知ってくださるきっかけにもなった『マツモトキヨシ』の「何でも欲しがるマミちゃん」役が決まったのです。
そこからトントン拍子でバラエティー番組とドラマへの出演が決まり、一気に仕事が忙しくなりました。卒業間際には『号外!!爆笑大問題』にレギュラー出演するなど、大学4年生の1年間は一度も学校に行かず、毎日仕事をしていました。その時々で自分がやるべきことをコツコツがんばれば、道は開けることをそのころ学んだように思います。
「きみが休んだら、その席はなくなるよ」
20代は、とにかく忙しかった記憶しかありません。今は「働き方改革」が当たり前にいわれていますが、当時はマネージャーさんに「今、きみが休んだら、戻る席はない。次はその席にほかの子が座っているよ」と言われる時代でしたので、びっくりするようなスケジュールのなか過ごしました。
あまりの忙しさに「やめたい」と思うこともありましたが、「じゃあ、ほかに何がやりたいの?」と考えると答えが出ませんでした。
そんなとき、お味噌のCMに出て、家族が喜んでくれた仕事の原点を思い出しました。「そうだ、私は誰かを喜ばせることが好きなんだ。家族だけじゃなく、どこかでテレビを見てくれた人が、『この子、面白いな』とクスっと笑ってくれたらいいな。そのためにがんばろう!」と思えたのです。それがこの仕事を続ける原動力になりました。
出産後2カ月で復帰 娘に対し罪悪感あった
最初の子ども(長女)を産んだのはちょうど30歳のときです。10代から芸能界しか知らず、長期休暇も取ったことがなかったので、今度は産休をいただくことに不安を感じました。ただ、このときは産後2カ月でCMの撮影や雑誌の連載が決まっていたので、せっかくの休みに「野菜ソムリエ」の資格を取ろうと、大きいお腹で専門学校へ。長女が生まれるギリギリまで学校に通いました。
一般の会社だと1年ぐらい産休を取る方が多いかもしれません。でも、仕事にやりがいも感じていましたし、「戻る場所がある」といううれしさで、早期復帰はむしろ楽しみのほうが大きかったですね。
ところが、いざ仕事が始まると、子どもと離れることに罪悪感を持つようになりました。これは働くママ全員が感じることだと思います。ただ、実際に離れてみると、別れ間際まであんなに泣いていたはずの娘が、あとで保育士さんに「すごくご機嫌でしたよ!」と(笑)。子どもは子どもで、与えられた環境で楽しんでいたようです。
そう考えると、ママが働いている、働いていないにかかわらず、母子がずっと一緒にいるのが必ずしもいいわけではないように思えたのです。たまにはお子さんを誰かに預けて、2、3時間でもいいから自分のために美容院に行ったり、ショッピングに出かけたり。「ママが自分の時間を持つことも大事」という今の風潮は、子育てにおいてすごく進化したことだと思います。
30代、人生の嵐の先で見つけた新しい幸せ
今振り返ると、30代には絶対に戻りたくない!でも忘れたくないという10年間でした。子どもを2人抱えて離婚。「この先どうしよう、私が養ってこの子たちを支えていかなくては」と思うと、風邪一つひけませんでした。「私ってこんなにたくましかったっけ?」と思うほど強くもなりましたが、そんな私に「子どもは見てるから、ちょっと美容院に行っておいでよ」「今のうちにスーパーに行ってきたら?」「コロッケつくりすぎたから晩ご飯に食べてね」と手を差し伸べてくれた友達の存在は本当にありがたかったです。この関係は一生ものだなと思います。
そんななか、常に戦闘態勢だった私にある変化が起こりました。現在の夫(爆笑問題の田中裕二さん)との再会です。
その日は、仲良しの安めぐみさんと東貴博さんの結婚式の2次会でした。私はプライベートで初めて母に子どもたちを預け、おしゃれをして、「2時間だけのシンデレラ」気分で会場に出かけました。
そこで田中さんと久しぶりに再会。「もえちゃん元気?」「元気じゃないですよ、やさぐれてます(笑)」「それじゃダメだよ。みんなでおいしいご飯食べに行こう」「子どもも一緒ですよ?」「もちろん、いいよ」そんな言葉を交わし、食事会当日を迎えました。
ところが、ほかのみなさんに予定が入り、その日は結局、田中さんと私、子どもたちの4人だけに。しかも忙しい合間を縫って時間をつくってくださったのに、子どもたちがご飯を食べ終わった途端、「家に帰りたい」とわがままを言ったのです。帰宅後、「今日はあわただしくて申し訳ありませんでした…」と謝りのメールをしたのがきっかけで毎日メールを送り合うようになり、お互いの距離が縮まっていきました。
家族5人で朝ごはん この時間を大切にしたい
その後、田中さんにお付き合いを申し込まれたとき、「今は子どもが最優先で、そういう気持ちになれません」と、正直な気持ちをお伝えしました。でも、「そんなもえちゃんが好きです」と言ってくれて将来を見据えたお付き合いがスタートしました。一緒にいて安らぐ人で、最終的には、子どもたちが本当のパパのようになついている姿を見て、「この人と暮らす未来は穏やかで素敵かもしれない」と。
あのとき結婚を決意してよかったと思います。あれから8年。この春、長女は高校1年生、長男は中学1年生に。すでに夫の身長を抜きました(笑)。
夫はいいパパではあるけれど仕事が忙しく、最初は家事をまったくやってくれませんでした。ところが、3番目の子を授かってから私の体調のよくない日が続き、そこから少しずつ手伝ってくれるように。ゴミ出しをしてくれるようになり、洗濯機を回せるようになり、洗濯ものの干し方がやっと正しくなり、お米のとぎ方を覚え…。結婚8年目にして、やっと炊飯器でご飯が炊けるようになりました。「この家族は、ママが一番大変なんだよ。だから、みんなでママを助けてあげようね」と言ってくれ、今では子どもも巻き込んで、みんなで家のことをやってくれます。
最近うれしいことがありました。うちは朝、出かける時間がバラバラで、なかなか朝食を一緒に食べられないのですが、珍しく全員がそろった日がありました。すると、5歳の娘が「ああ、家族みんなで朝ご飯、うれしいな。幸せだね!」と言うのです。「たしかにそうだね!」とみんなで顔を見合わせ笑顔になりました。子どもが大きくなるのはあっという間。だからこそ、そういう些細(ささい)な幸せを大切にしていきたいと思っています。
(東京都渋谷区にある事務所の一室にて取材)
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