『新婚さんいらっしゃい!』など明るく見える陰で悩む日々
- 山瀬 まみさん/タレント
- 1969年生まれ、神奈川県出身。『第10回ホリプロスカウトキャラバン』で優勝し、アイドル歌手としてデビュー。その後、明るいキャラクターと軽妙なトークでタレントとしても大成。『新婚さんいらっしゃい!』『ためしてガッテン』『ブロードキャスター(お父さんのためのワイドショー講座)』『天才!志村どうぶつ園』『火曜サプライズ』など、数々の長寿番組に出演。料理好きとしても知られ、著書に『山瀬ごはん亭のおいしい12ヶ月』他がある。
私は歌手になる! 確固たる自信があった
意外かもしれませんが、私はもともとおとなしい性格で、母が家に誰もいないと思い込み、買い物に出かけてしまうくらい静かな子だったそうです。
小さい頃は、1人でおままごとやリカちゃん人形で遊ぶのが好きでした。だからといって暗いわけではなく、当時大好きだったピンク・レディーの曲を親の前で歌う一面もありました。すると、「うまいね!」とほめてくれ、カラオケを買ってくれました。自分でもその気になってカラオケで歌ううちに、今度は近所の人たちが聴きに来て、「うまいね!」と。
そこから私は「歌手になろう」と思い、将来の仕事を決めました。
今思えば能天気な話ですが、学校の三者面談で「進路はどうする?」と聞かれても、「私は歌手になるので大丈夫です」と答えるほど、確固たる自信があったのです。
2度目の挑戦で優勝 新人発掘オーディション
デビューするなら大きいプロダクションがいいと考えていました。目指したのは『ホリプロスカウトキャラバン』の優勝です。中学生当時、最終オーディションの様子がテレビで生放送されていて、翌日の学校はその話題でもちきりだったこともあり、「私もあそこで優勝するんだ!」と心に誓っていました。
そして14歳のとき、ついに第8回のスカウトキャラバンに挑戦。このときは書類選考で落選してしまいましたが、その2年後に再挑戦し、念願の優勝とホリプロからのデビューが決まりました。学校に行くと、まわりの反応がすごくて、びっくりしました。私を見ようと廊下が人だかりになり、お弁当を食べているだけで、「今、ウインナーを食べています!」なんて実況中継されるのです。夢が叶ったにもかかわらず、急な現実感が出てきて、「これからは、自分の足で人生を歩いていかなければいけないんだ」という、覚悟のようなものが生まれた瞬間でした。
オーディションから1カ月後、親元を離れて寮に入り、そこからデビューまでの半年間はレッスンの日々でした。私の場合は歌や踊りに加えて、「話し方」のトレーニングも受けることになりました。「さくら〜さくら〜♪」が「らくだ〜らくだ〜♪」に聞こえるぐらい、滑舌が悪かったのです(笑)。
バラエティは知名度を上げるための種まきの場
正統派アイドルとして17歳でデビュー。しかし、当時はトップ10に入らないと出られない歌番組が中心でした。私は地方のイベントばかり。よくデパートの屋上などで歌っていました。
ところがデビューから1年後、突然、新番組『テレビ探偵団』の司会の1人に抜擢されることに。『第11回ホリプロスカウトキャラバン』のプレゼンターを務めていた私を見たテレビ局の偉い方が興味を持ってくださり、私を推してくださったのです。
この番組をきっかけに、バラエティでどんどんレギュラーが決まり、お茶の間に顔と名前を知ってもらったおかげで、地方の歌の仕事でも明らかに動員数が増えてきました。私自身、その頃は「テレビでもっと顔が売れれば、歌も売れるかもしれない。歌手でがんばるための種まきをバラエティですればいいんだ!」と、目の前の仕事に必死でした。
元祖「バラドル」を楽しめない時期も
しかし、バラエティを長くやるようになり、「バラドル(バラエティ・アイドル)」と呼ばれるポジションが確立されると、歌は反対にどんどん遠ざかっていきました。
バラエティの仕事をすごく楽しいと感じる一方で、「私、このままで本当にいいのかな?」と不安になったのもこの頃です。売れっ子になったにもかかわらず、1日のうちに何度も心の浮き沈みを感じ、自分の置かれた状況を素直に喜べない時期もありました。
だからといって、視聴者のみなさんに楽しんで見てもらえなかったら、私が呼ばれた意味はありません。何より、私を選んでくれた番組プロデューサーの要求に応えたいという気持ちは大きかったと思います。
私に求められることの1つが、大物タレントを相手に果敢に突っ込んでいくことでした。大物と呼ばれる人たちは、たいてい心の広さも大物です。小娘だった私が何を言っても、怒ったふりをしながら、あちらも乗ってきてくださいます。ところが、あるとき本気で怒って帰ってしまった方がいて…。そのときは心底怖かった。もともとが“ビビり”なので、1週間くらい悩みました。
その頃は俯瞰で自分を見て、「浮かれるな。痛い目を見るぞ」と戒めたり、「このまま泣きながら寝たら、明日、顔がはれるよ」と自分で自分をなだめたり。気分よく帰ってもゼロまで落とし、凹んで帰ってもゼロまで上げる努力をしていました。
40代でぶつかった壁 居場所がない…
その後もバラエティの仕事は順調でしたが、30代後半から40代にかけては、“中堅”という立場が苦しかった。若手でもないし、ベテランでもない。どっちに行けばいいんだろうと迷い、壁にぶつかりました。
たとえば、『新婚さんいらっしゃい!』のアシスタントをやっていたとき、私が夫婦のアドバイスをしても、「若輩者が偉そうに」と思う視聴者もいるかもしれないと変に遠慮してしまったり、いつもなら突っ込むところを、「今の私がやったら大人げない」と躊躇(ちゅうちょ)してしまったり。誰かにそう扱われているわけではなく、自分のなかで勝手に「居場所がない」と思っていただけに、余計つらい時期が長く感じました。
ただ、ある人が「まみちゃんがいると番組に安定感が出る」と言ってくれ、見てくれている人は絶対にいる、自分がしてきたがまんは無駄ではなかったと思えました。苦しかったことは事実ですが、中途半端な時期を抜け出すときには誰もが通る道なのかもしれません。
50代に入ってやっと「言いたいことを言ってもいいのかな?」と思えるようになり、楽になりました。この先は、これまで積んできた経験値を自信に変えて、前に進んでいくしかありません。
違う名字を手に入れて山瀬まみを切り離せた
29歳で中上雅巳さんと結婚。本名も芸名も山瀬だったのが、違う名字を手に入れて、「山瀬まみ」を自分から切り離すことができました。仕事のとき以外、肩に乗せてきた大きな荷物(日本中で知られた名前)を下ろせたのが結婚だったのかなと思います。
先ほど、心のプラスマイナスをゼロにするのが大変だったと言いましたが、結婚してからはそれがすごくたやすくなったのです。仕事が終わって、玄関を開けたら、「奥さんになります!」という感じで、気持ちの切り替えスイッチになりました。
結婚してよかったことはほかにもあります。そもそもお互いに食べることと飲むことが好き。初デートから居酒屋さんで、胃袋と肝臓が認め合った仲というか、「この人とならやっていける」と思いました。
毎日、食べて、飲む時間が楽しいというのはすごく幸せなこと。喜んで食べてくれる人がいると、料理に手を抜かず、栄養バランスを考えたり、塩分を考えたりもして、それが結果、お互いの健康のためにもなっているのかなと思います。
脳内キッチンで毎日料理を
私は脳内にキッチンを備えていて、家にある材料で、頭のなかで1回調理してみて、それを想像で食べてみるのです。それで、「これはいける」と思ったレシピは、実際につくってもけっこうおいしいと感じています。そこに脳内で合わせたお酒も添えて、夕食が完成します。
特技は、レストランで食べた料理を家で再現すること。ときには、テレビで見ただけの高級店の料理を脳内キッチンで再現することもあります。そうすると、旦那さんもびっくりするじゃないですか。それで、店に行ったこともないのに、「あの店のあれ、おいしいよね」とか言うんです(笑)。
小さい頃、大好きだったおままごとの延長をしているようで、毎日が本当に楽しいです。
少し時間ができた今、人生を生き直している
料理を楽しくする私なりの秘訣は、テレビの『3分クッキング』よろしく、先生役やアシスタント役を演じ分けること。今日は先生役だとしたら、調理の様子をカメラで映されていると思って、「本日は、この鶏肉を使用いたします」「こちらが15分煮たものです」と、料理番組のようにしゃべりながらつくるのです。すると、いつの間にか何品かでき上がっています。
17歳からずっと忙しく、家に長くいたことがなかった分、今は少し時間ができて、すごくかけがえのない人生を手に入れたなと思っています。ささいなことかもしれませんが、昼間、家で日向ぼっこをしてちょっと泣けてきたり、近所を散歩して、「この時期、つつじが咲くんだ」なんて、感動したり。すべてが新鮮で、あらためて生き直しているような感覚があります。
また、心の余裕があるせいかイライラせず、旦那さんに「あれやっといて」と言われても、「はーい」と言えます。自分がやさしくなると、相乗効果で相手もやさしくなり、自分が幸せだなと思うと、相手も幸せそうな顔に見える。今は本当にいい時間を過ごせているなと思います。
(東京都目黒区にあるホリプロの一室にて取材)
(無断転載禁ず)