江戸の人もお惣菜を活用していた! 斬新な手法で南方熊楠(みなかたくまぐす)賞に
- 江原 絢子さん/食文化史研究者
- 専門は食文化史、食教育史、調理学。1943年島根県生まれ。お茶の水女子大学家政学部卒。名古屋大学にて教育学博士号取得。東京家政学院大学教授を経て現在、同大学名誉教授、客員教授。ユネスコ無形文化遺産に登録後の和食文化の保護、継承を担う「(一社)和食文化国民会議」の副会長、調査研究部会長として和食の本を編集。現在は顧問。2022年第32回南方熊楠賞受賞。著書に『家庭料理の近代』、共著書に『日本食物史』『和食とは何か』など多数
遊びの中に季節があった
私が生まれ育った島根県浜田市は江戸時代から北前船の寄港地として知られる漁港の町です。生家は海から歩いて20分ぐらいのところにあり、田んぼと小さな山に囲まれていました。
1943年(昭和18年)、戦争がひどくなる頃に長女の私が生まれ、3つ下に弟、8つ下に妹の3人きょうだい。親にとっては厳しい時代だったと思います。でも、私自身は少しもひもじい思いをしたことはありませんでした。食べ物は配給で、たまにしか手に入らないお砂糖に重曹を加えて父が作ってくれたカルメ焼きや、さつまいもと小麦粉で作った蒸しパンなど、工夫して作ってくれた、おいしいおやつの味をよく覚えています。
とにかく外遊びが大好きで、晴れている日に家にいることはなかったですね。公園などもちろんありませんから、自分たちで近くの山を公園にして遊びました。四季折々の花や虫、きのこや果物、いろいろな自然の変化を肌で感じ、遊びの中に季節がある暮らしでした。
父の勧めで家政学部へ
父親が教員ということもあって小さい頃はなんとなく「将来は先生になりたいな」と思っていたような気がします。ところが中学校の家庭科の授業が嫌いで、先生になることはやめようと思うようになりました。調理でも被服でも、説明がなく「言う通りに作りなさい」というやり方に反発を感じたのですね。それなのに、まさか自分が後に家庭科の先生をやることになるとは(笑)。
高校で進路選択の時期になると父から「実生活の役に立つ家政科はどうだ」と勧められました。私は中学校での経験から家政科は嫌だと思いましたが、いろいろ調べてみると、大学で学ぶのは栄養学や食品学など自然科学系の内容が中心で、調理も「調理科学」といって実験的な内容のようでした。
それでお茶の水女子大学家政学部食物学科へ。両親としても東京に叔母(父の妹)が住んでいたこともあって安心感があったのでしょう。卒論などでは白衣を着て、毎日実験に明け暮れる日々を過ごしました。
教職から食文化研究の道へ
卒業後は退職した大学の先輩の後任という形で、静岡英和女学院という中高一貫の学校に家庭科の教員として就職しました。
その後、結婚を機に静岡から東京に戻り、先輩の紹介で東京家政学院高校に勤務することになりました。この転職が大きなターニングポイントとなりました。
東京家政学院は中学校から大学院まである学校法人です。その附属図書館に創立者大江スミ先生の名前にちなんだ「大江文庫」というコレクションがあり、江戸期から昭和30年くらいまでを中心に、家政学や女子教育などに関する歴史資料が収蔵されています。
そこで当時司書をされていて、後に図書館部長となった江戸時代の教科書の研究者Yさんから「大江文庫の食の資料について研究してほしい」と声がかかりました。当時、私は高校で1年教えた後、大学で調理学研究室の助手をしていました。江戸時代の文献を読むといっても、まず文字が読めません。
それでも何かピンと来るものがあったのでしょうね。「やります」とそのお話を受け、文献解読をゼロからYさんに教えていただくことになりました。
すると資料を通して江戸時代の人が語りかけてくるような感覚をおぼえ、「食文化を研究しよう」と直感。いったん東京家政学院を退職してお茶の水女子大学で食物史(食文化)を学び直しました。
その後は出産、夫の仕事に帯同しての渡米など一時的な休業はありましたが、再度、家政学院からお声がけいただき、専任講師として復職することになりました。
もし、家政学院との出合いがなかったら、まったく違う道に進んだと思いますので、不思議なご縁を感じます。
自分の舌を信じて
私は家政学院で調理を教えていた頃、学生たちに調理の手順を渡さずデモンストレーションをしていました。自分の言葉でメモすることで自分なりの手順を把握するためです。「計量器だけに頼らず、よく観察し、味見もして体で覚えることが大事」と言ってきました。
江戸時代の料理本には材料や調味料の分量は書いてありません。「調味料はお好きなように」だけのこともあります。レシピ通りに作る今の料理本とは違い、各自の好みに従って調味する書き方です。
私が教えていたのは15年くらい前までですが「調理は苦手」という学生が多くいました。でも、自分の頭で考え、手と舌で覚えていくと、だんだん調理が面白くなってきます。「やってみよう」という気持ちになって、実習の活気が違ってきました。
便利なものは堂々と
毎日の食事を作ることが重荷という方も多いようです。でも、あまり難しく考えすぎないほうがいいと思います。高度成長期以降、勤労者の所得が増え続け、1970年頃は専業主婦が増えました。すると「手作り」が推奨されるようになり「お惣菜で済ませるのは主婦の手抜き」という風潮が広がりました。
でも、江戸時代から、庶民の日常食ではお惣菜屋を利用していましたし、魚や野菜や豆腐や納豆、煮しめなどを売り歩く「振り売り」が家の前まで売りに来てくれるのですから、今のコンビニより便利かもしれません。
便利で使えるものは使ったらよいと思います。私も忙しい時は冷凍食品やレトルト食品を使います。引け目を感じないで主体的に使うためには、調理技術や食材、栄養などについて基礎的な力を蓄えておくことも必要です。私は食材を加えるなど楽しんでいます。
各地の郷土料理研究
80年代後半以降になると国内外の食文化に関する調査も多くなっていきました。岐阜県(飛騨地方)、愛知県(豊田市稲武町)、山梨県(旧西原(さいはら)村)など、地域によっては食事作りを手伝いながら代々継承されている伝統料理の調査や、ヒアリングを行いました。
1989年、民俗学者の方々とともに訪れたネパール東部の村では、原始的な暮らしの中に子どもたちに愛情を注ぎ懸命に明るく過ごす人々の姿があり、同じ人間として共感できる、印象深い調査となりました。
その頃、ある先輩の研究者から「近代(明治以降)の教科書の食の歴史的研究を一緒にやりませんか」と声をかけられました。調査を進めるうちに、自分でも「近代の学校における食教育をテーマに研究したい」と思うようになり始めました。ところが、資料がほとんどないのです。
そこで「研究のために戦前、戦中の調理ノートなどを探しています」と書いた手紙を東京の高等学校の校長先生宛てに送り、お返事のあった学校やそこで紹介していただいた方を訪ねて資料を収集していきました。
そして1996年、10年かけて収集したノートなどを元に「高等女学校における食物教育の形成と展開―1943年中等教育改革期を中心に」という論文で名古屋大学より教育学博士を取得しました。
南方熊楠賞受賞に思うこと
その後、この学位論文に加筆修正して出版した『高等女学校における食物教育の形成と展開』が1998年日本風俗史学会「江馬賞」を受賞。
調査を始めた頃は「生徒のノートが研究材料になるのか?」と疑問視されることもありましたが、気になりませんでした(笑)。今でも資料を調べ始めると食事も睡眠も忘れるほどワクワクします。「知りたい」という気持ちが最優先。どうしたらその事実が分かるのか、あそこに行けば、あの時代にさかのぼれば分かるかもしれない…とアイデアが次々に湧いてきます。
2022年は、南方熊楠賞受賞といううれしいお知らせを頂きました。多少なりとも熊楠翁の研究方法に近づけたのであれば、とてもありがたいなと思っているところです。
尽きない好奇心
和食文化が2013年、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)無形文化遺産に登録されて今年で10年。私自身、まだまだ「もっと知りたい」という宿題がいくつもありますが、自分の命のほうがいつまであるか(笑)。
今、食文化を研究する若い人たちも少しずつ増えてきています。しかも家政系だけではなく、いろいろな分野の人たちが食文化に関わるようになっています。そういう意味でも後継者がしっかり育ってくれるように、今後もできる限り若い方たちをサポートしていきたいと思っています。
(都内にて取材)
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