2度の世界女王、女子初の4回転サルコウ 原動力は心に残る選手になりたい
- 安藤 美姫さん/フィギュアスケーター
- 1987年生まれ、愛知県出身。9歳で本格的にスケートを始める。2001年から03年の全日本ジュニア選手権3連覇、シニアの全日本選手権でも03年と04年に2連覇を果たす。02年、中学3年生で出場した国際大会で女子史上初の4回転サルコウに成功。06年、10年にオリンピック出場。07年、11年の世界選手権で2度優勝。引退後はスケーターのみならず、コーチ、女優など活躍の場を広げている。著書に自伝『空に向かって』(2010年、扶桑社)がある。
父を失った悲しみから救ってくれた先生の笑顔
実家は名古屋で喫茶店を営んでいました。一緒に住んでいたのは母方の祖父母と母の妹、両親、私、弟の7人で、大家族のなかで育ちました。
休みの日はみんなで遊園地へ行ったり、川遊びをしたり、家族が絵を描くことが好きだったので、スケッチブックを持って自然のあるところへ行き、みんなで写生をしたり。楽しい思い出です。
外で遊ぶのが好きな活発な少女でしたが、人見知りで人前に出るのは大の苦手。幼稚園の発表会のお芝居でシンデレラ役をやることになったときも、嫌で嫌でたまりませんでした。今でも初めての方とお会いするとひどく緊張します。
スケートを始めたのは8歳です。ただ、同時期に父を交通事故で亡くし、そのショックから1回やめているので、本格的に始めたのは9歳のとき。それまでピアノ、水泳、絵画教室と、ほかにも習い事をしていましたが、父の死をきっかけにフィギュアスケート1本に絞りました。
8歳で父親の死を経験する人はそう多くはないと思います。子どもの私には悲しみが大きすぎて、家にひきこもってしまいました。でも、最初にスケートに誘ってくれた友達が「もう1回スケートに行こうよ!」と家から外に連れ出してくれたのです。そこで出会った門奈裕子コーチの笑顔に救われました。先生の笑顔に毎日会いたいと思うようになり、スケートにのめり込んでいきました。
そのとき抱いた夢は、「門奈先生のようなコーチになる」。9歳当時の夢を今も追いかけています。
トップを目指すより心に残る選手になりたい
門奈先生は教え方がすごくわかりやすくて、グループで遊びながら楽しくジャンプを競ううちに、3回転‐3回転などいろいろなジャンプをマスターしていきました。
小学5年生ぐらいからノービスの大会に出るようになりましたが、スケートは当時マイナーなスポーツで、初めて全日本フィギュアスケート選手権に出たときも入場料は無料。家族と関係者以外、よほどのスケートファンでない限り、会場に足を運ぶ人なんていませんでした。
それこそゴールデンタイムにTVで生放送されたのは、2007年に東京で行われた世界選手権が初めてだったと思います。それでスケートファンが増えたのはうれしいことですが、私はメジャースポーツをやっている実感もなく、トップになる目標もなかった。ただ自分が成長したいと思っていただけでした。
憧れの選手はアメリカのミシェル・クワン。氷の上にいるだけで存在感があり、なおかつ内側からにじみ出てくる強さ、やさしさといった感情表現が豊かで心に残るスケーターです。私も彼女のようなスケーターになりたいと思っていました。
自分を守るため、人を信じないことにした
ところが、高校生のときの初めてのオリンピック出場の頃からメディアでの露出が増え、私の生活も一変。練習から帰ってくると、毎日のようにパパラッチの方が家の前で待っていたり、知らない車が停まっていたりするようになったのです。精神的につらい日々が続きました。
なかでも悲しかったのは、トリノオリンピック後の見知らぬ人たちからの攻撃です。今でいうバッシングの手紙が家にたくさん届きました。
まだ高校生だったので、友達が部活や受験勉強に励んでいるのと同じように、自分もスケートをやっているだけ。それがなぜ、知らない人に傷つけられ、批判されなければいけないのか…。18歳の私がそのとき見つけた自分を守る方法は「人を信じない」ことでした。
試合後のインタビューは仕事と割り切り、必要最低限のことだけ答えるようになりました。本当に信じられる人と一緒にいるとき以外は常に気を張っていて、表情もかたく、言葉にもとげがあったと思います。それで「安藤美姫はわがまま」という感じを与えたかもしれません。
その選択を家族は悲しんだけれど、今も基本的に人を信じてはいません。ただ「この人は信用できる」と見極めることもできるようになりました。今は信頼できる人がまわりにいてくれるからこそ、自分らしくいられるのかなと思っています。
アメリカに拠点を移し心が解放された
トリノのあとにニコライ・モロゾフコーチの誘いでアメリカに拠点を移しました。1番よかったのは、自分を知らない人たちのところへ行けたこと。なおかつ、モロゾフコーチの下で、「フィギュアスケートはジャンプだけじゃない、表現力や感情が重要」という、新しいフィギュアスケートの魅力を教えてもらったことです。その気づきによってスケーティングが変わり、それが自信にもつながったので、私にとってはすごくいい経験だったと思います。
ホームステイ先のお母さんに「ミキには感情がない。もっと自分らしくしていい」と言われたことも、心が解放された大きなきっかけです。文化の違いもありますが、日本でいう「わがまま」と、自分の気持ちを話すことは違います。もっと感情を表に出していいんだと思えるようになりました。
とはいえ、その頃は試合で行く日本がアウェイでした。2007年の世界選手権で優勝できたのも、日本への反発から生まれた強さが原動力だったかもしれません。今は違いますが、「いずれコーチになるときも、日本の選手に勝つ選手を海外で育てる」と決めていたぐらい(笑)。応援する選手以外は露骨に拍手をしないといった、一部のファンの方々のマナーの悪さもそう思った理由の1つでした。
ですが、それから3、4年が経ってSNSが盛んになり、心からスケートを応援してくれる人たちに目を向けられるようになってからは、「日本人でよかった」と思えるようになっていきました。
震災で被災した人を思いながら滑った大会
2011年、東日本大震災後の世界選手権は、出場を辞退するつもりでした。未曾有(みぞう)の災害を目にして、朝、元気に出て行った家族を突然失う悲しみが幼い自分と重なり、リンクに行けなくなってしまったのです。
でも「こういうときだからこそがんばって」「ミキちゃんの滑りを見ることが勇気になる」と被災地の方々から手紙をもらい、そこからアメリカで練習させてもらってロシアで大会を迎えました。ショートプログラムは、日本に向けて100%気持ちを伝えたい一心で滑ることができました。フリーは自分の演技に集中し、金メダルを持ち帰れてよかったと思います。
大会後はすぐ日本に帰らず、海外での震災復興チャリティーショーに出演し、日本人としてメッセージを届けました。帰国後は、自分でも「Reborn-Garden」という社会貢献プロジェクトを立ち上げ、微力ながらさまざまな支援を続けています。一度関わったからにはずっと携わっていきたい。生活の一部として長く続けていくつもりです。
娘を出産後、1カ月でアイスリンクに
世界選手権後に休養に入り、2013年4月に娘を出産。その1週間後にはスケート靴を調整し、2週間後には練習を再開、1カ月後にはアイスショーに出演しました。9月の終わりには復帰戦があり、そこに焦点を当てて動き出しました。
復帰の理由は2つあります。1つは、休養中に「リンクに戻ってくるのを待っているよ」というメッセージを本当に多くの方からいただいたこと。その人たちに感謝の気持ちを持ってリンクに立ちたいと思いました。
もう1つは、娘にどんなときもあきらめないことの大事さを見せたいと思ったからです。その姿を娘は覚えていないでしょうが、リンクに連れて行き、同じ空気のなかで過ごすことで伝えたいと思ったのです。
しかし、実際に滑ってみると、スケーティングやスピンは問題なかったのですが、ジャンプがまったく浮かなかった。1回転も飛べずに、自分のイメージと実際の高さがまるで違ったのでびっくりしました(笑)。
それでまた門奈先生にお願いして少しずつトレーニングしていきました。当時25歳でしたが、9歳の頃に戻った感じで、すごく楽しかった。久しぶりに門奈先生と大笑いしながら、1回転から2回転、2回転から3回転を飛べるようになる喜びを全身で味わうことができました。それが現役最後の1年になりましたが、いろんな意味で幸せな1年でした。
また、シングルのフィギュアスケーターで出産後、現役復帰したのは私が初めてかもしれません。自分が前例をつくったことで、今後は経験を伝えることができる。コーチをするに当たってもすごくプラスになった1年だったと思います。
オープンマインドな娘には尊敬しかない
娘はとても明るい性格で、相手がどんな人でもすぐに打ち解けるコミュニケーション能力があります。私のほうが人に対して警戒心があり、自分から心を開けず、壁をつくってしまう。彼女を見ていると、私より大人だなあと尊敬します。幼稚園のママ友も娘がきっかけで仲良くなって。娘がいなかったら、また別の人生を歩んでいただろうなと思います。
今は何をしていても幸せです。コーチとしても充実しています。いつかは自分のリンクを持って、初心者から世界を目指すスケーターまで幅広く教えていきたい。チャレンジはまだまだ続きます。
(都内にて取材)
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