東大法学部を卒業しても就職口なし 司法試験合格も女性は歓迎されず
- 住田 裕子さん/弁護士
- 1951年、兵庫県加古川市生まれ。東京大学法学部卒業。東京地検検事に任官後、各地の地検検事、法務省民事局付(民法等改正)、法務大臣秘書官、司法研修所教官などを経て、弁護士登録。関東弁護士会連合会法教育委員会委員長、獨協大学特任教授などを歴任。現在、内閣府・総務省・防衛省などの審議会会長などを務める。NPO法人長寿安心会代表理事。長寿社会に向けたわかりやすい法律本『シニア六法』(KADOKAWA刊)など著書多数。
実家は自転車卸商 第1子として出生
私が生まれ育った兵庫県加古川市は、都会というには小さいけれど商店街があり、農山村に海浜、加古川の流れなど自然にも恵まれたのどかな地です。私は自転車卸商などを営む両親の第1子として生まれました。
母は女性ゆえに大学に行かせてもらえず、6人兄弟の長男である父と結婚し、「長男の嫁」として苦労の連続。そんな母の背中を見て育ち、女性も経済的に自立しなくては…という想いを持ち続けていました。
叔母2人がピアノ・声楽と音楽の途に進み、大学教授になりましたので、私もと目指したのですが、ピアノの練習嫌いからあえなく挫折。女性でも差別がなく一生仕事が続けられそうな公務員にと方針転換して、高校は県立の進学校に入りました。
といっても勉強一筋ではなく、クラブ活動の卓球では加古川市大会で個人・団体優勝、県大会にも進んだことがあります。
父も長男として弟・妹の学資を稼ぐため、大学に行くことは叶わなかったため、私が高校の担任から「目指すなら東大法学部に」と勧められたときは、喜んで賛成してくれました。
挫折を経験した人間は傲慢(ごうまん)にならずにすむ
学園紛争の影響で、昭和44年の東京大学入試が中止に。その翌年に東大を受験したのですが、1年待っていた人たちとの競争もあり、不合格。2度目の大きな挫折でした。
加古川では女性の浪人生は周囲にはいなかったので、父が「100万円はかかるなあ」とぽつりともらしつつも東京での浪人生活が許されました。母は「人生には挫折・頭を叩かれた経験があるほうが、傲慢にならなくてすむ」と言っていました。
たしかにそうでした。私は超優秀な優等生ではないと思い知らされたことで、その後は「上から目線」の言動とは一線を画することができ、法律家として、またテレビでコメントをする上でも結果的によかったと思っています。
最難関の司法試験に合格し司法研修所へ
しかし、男女雇用機会均等法などなかった時代です。東大法学部を卒業しても男性とは違って民間企業への就職口はほぼなく、国家公務員採用にも厳然とした女性の壁がありました。
残された途は司法試験のみ。といっても2回落ちて、大学留年も2年。家族でも頼りにしていた上の弟を水難事故で亡くし、切羽詰まった中での合格でした。真ん中よりちょっと上くらいの成績でしたが、司法研修所の入所面接では、裁判官の教官から「成績悪いね」と言われ、裁判官は無理だとあきらめました。
本当は、公務員として身分保障があり、男女平等と思われる裁判官になりたかったのですが、女性で裁判官に勧誘されたのは1桁の順位で合格した方だけだったと、あとで知りました。私の1年先輩の女性修習生数名が、裁判官教官から酒席で「修習を終了しても家庭に入って能力を腐らせるのが女性の幸せ」と平然と話された時代。当時、男女平等の精神はここにもなかったのです。
実務の研修中に検事の見習いを経験して、正義感を生かせるのではないかと検事に志望変更しました。実は当時、検事志望者が少なく、定員割れの状況で、女性でも「数合わせ」で採用しようということだったのですが。
新任検事となり、皆で連れ立って憧れの特捜部長にごあいさつに行ったとき、いきなり「ここは男の世界だからな」ときつい一言を頂きました。わかっていたことですが、女性はここでも歓迎されませんでした。
検事に任官し、世間知らずのお嬢ちゃんだったことから、被疑者のうそにだまされ、被害者にもばかにされ、散々でしたが、その苦労は次第に生きてきました。
同期のエリートと結婚 「仕事も、子どもも」
夫は東大・司法試験をストレート合格という秀才でしたが、夫だけでなく、夫の母も女性が仕事を持つことに理解があり、仕事と家庭の両立が可能ということも結婚を決めた大きな理由でした。
とはいえ、結婚した以上、子どもは欲しい…。弟を亡くしたときの両親の嘆く姿を見たとき、子どもを持って親孝行したいという希望がわき上がっていました。仕事は続けたいが子どもも欲しいという、当時としては欲張った願望を抱くようになっていたのです。
大阪地検堺支部の勤務時、2児をもうけましたが、官舎がある岸和田は、幸い実家から2時間あまり。週末は母が応援に来てくれましたし、ご近所の老夫婦が家事の手助けをしてくださいました。また、岸和田は女性が働くのが当たり前の地で、子どもを見ていただける方も見つけて、なんとかやり繰りしました。
検事という仕事柄、子どもたちが非行に走らないことは最重要。そのための心掛けは、「感謝のありがとう」と「ごめんなさいの謝罪」の2つの「謝」ができること。これだけは、母として心掛けました。人とつなぐ言葉は「ありがとう」。人は過ちをおかすこともあるものですが、そのときにはしっかりと謝って、過ちは繰り返さないこと。今は私たちの娘が3人の孫をもうけて近くに住んでおり、孫育てでもふたたび実践しています。
40代で弁護士に転身 TVのコメンテーターに
その後、法務省勤務や大臣秘書官などを経て、1996年、弁護士に転身。そこへテレビのコメンテーターの出演依頼が舞い込みました。
以前の上司が推薦してくださったとのこと。お世話になった方々に、テレビ画面を通じて元気でがんばっている姿を見ていただこうと、出演を始めました。
ところが慣れない世界で、堅物すぎたのでしょう。1年も持たずにクビに。しかし、そのご縁でいくつかの番組から声がかかり、『行列のできる法律相談所』の前身のお試し番組にも出演しました。
これが時代の要請だったのか、「法律問題の答えは1つではない」「多様な意見があり得る」といった、法律・判例が変わっていく世の中の流れにマッチしたのでしょう。大変な人気番組となり、「ママさん弁護士」「法律の母」と呼ばれるように。講演の依頼も増えました。
一方で、女性の声が必要ということから、いくつかの政府審議会の委員にも関与するようになりました。
人生において「仕事」「働くこと」とは
これまで検事として犯罪者と、弁護士として困難な立場にある依頼者と、大臣秘書官として政治家と、審議会委員として政府幹部・高名な学者の方々と、はたまた、宮中行事の参列による皇族の方々とお話をするような、多様な経験をすることができました。
そんな経験を通じての私の発言のベースは、「上から目線にならない」「わかりやすく簡潔で、率直な言葉・言い方で対話し、伝える」「飾らない、よく見せようと思わない」でしょうか。
テレビカメラの前、講演会の観客の前で緊張するのは当然ですが、「かっこよく見せたい」という邪念を払拭し、私の考え、信念を率直に伝えたいという想いがあれば、なんとかなると思っています。
私にとって仕事とは、「自己実現の場」といえます。今後、今の仕事がなくなっても、無報酬であっても、誰かとの関わりを持ち、誰かのお役に立てるような存在であり続けたいと願っています。
3つの「キン」で長寿社会を心豊かに
現在、東京と大阪の報道番組にレギュラー出演しています。また、国の3つの審議会に関与しており、特に、衆議院議員選挙の区割りを決める審議会は6月末の勧告をすませてやっと一息。それまでは週1〜2回のペースでした。そのほか、懸案の弁護案件もあり、これらの山が過ぎるまで、あとひと踏ん張りというところです。
多忙な中で必要なのは、心身のメンテナンス・ケア。仕事では座りっぱなし。また、火曜の大阪のテレビ出演は、日帰り仕事のため、航空機の往復もなかなか大変。そのために週2〜3回のペースでスポーツジム通いに努めています。長寿社会を心豊かに過ごすための秘訣(ひけつ)は3つのキン「金」「筋」「近」だと思っていますが、その1つ「筋」の実践です。
また、夕方から仕事のない日は孫3人の夕食の世話をしています。保育園児2人と小学生1人。私は手抜きの母でしたから、その罪滅ぼしとして愛情たっぷりの「ババ」になっています。孫の成長に合わせて献立の幅も拡げたいと、工夫もしています。一緒にお世話している「じいじ」(私の夫)もレパートリーが増えました。
近くの孫とのふれあいも楽しく(近)、仕事を続けているので必然的に収入も続いています(金)が、今後、年齢を重ねるごとにあちこち故障してくるでしょう。今も変形性膝関節症です。身体と相談しながら、今できることを楽しみたいと考えています。
20代で社会に出て検事となり、40代で弁護士に転身して自由の身になりました。そして、60代では、長寿社会で安心安全に暮らすための社会づくりを行うNPO法人をつくりました。人生の節目で新たな挑戦をすることは飽きっぽい私にはちょうどよかったのかもしれません。
次の20年、80代になったときにどうするか…。80代の挑戦があるかもしれません。中間年の今の70歳を大切に。できることをできるだけ。無理はしないがちょっとだけがんばるというペースで過ごしたいものです。
(都内にて取材)
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