『お水の花道』は楽しかった。東京と大分の2拠点生活を満喫
- 財前 直見さん/女優
- 1966年生まれ、大分県出身。85年、女優デビュー。主な出演作品は、ドラマ『お水の花道』、連続テレビ小説『ごちそうさん』、大河ドラマ『おんな城主 直虎』他多数。2007年より大分県に移住し、父、母、息子と4人暮らし。著書に『自分で作る ありがとうファイル』(光文社)、『直見工房 財前さんちの春夏秋冬のごはんと暮らし』(宝島社)がある。3月23日には大分県日田市を舞台にしたドラマ『君の足音に恋をした』(NHK BSプレミアム)が放送される。
財前家のルーツは平安時代の歌人・紀貫之
小さい頃は、母のスカートのすそを持って後ろに隠れているような、大人しい子どもでした。姉が一人いて、姉のほうが活発で、男の子とケンカして相手にかみつくぐらいのおてんば娘でした。
子どもの頃は兵庫県姫路市に住んでいたのですが、小学校3年生のとき、父の生まれ故郷である大分県に移住することになりました。
財前家は平安時代の歌人・紀貫之にルーツがあります。祖父の暮らしていた大分の田舎の山には「財前家宝塔」という墓地があり、国の重要文化財に指定されています。
父は財前家の山や畑(1800坪の田んぼと1800坪の畑、1800坪の山があります)を守るべく、現役時代から今も一人で、週末農業を続けています。
「田舎に帰れ」と言われスイッチが入った
18歳で女優活動を始めた私は、今の会社の女優第1号になりました。ところがデビューして2、3年後に仕事がなくなり、マネージャーから「お前、辞めて田舎に帰ったらどうだ?」と言われてしまいました。
それまでも、よく「欲がない」と言われていたのです。役づくりへの探求心や向上心はありましたが、たしかに「私をどうしても売ってほしい」「私のために仕事を取ってきて」という欲はありませんでした。マネージャーにしてみれば、私が何を考えているのかわからなかったのかもしれません。
でも、おかげで自分にスイッチが入りました。「本当に芽がないならあきらめますが、可能性があるならもう一度チャレンジしてもらえませんか?」と直談判し、そこからドラマのお仕事が少しずつ増えていきました。
当時の撮影の厳しさ。役者は自分から動く
当時の撮影現場は、照明が決まると、カメラが固定され、自らカメラを意識して動かなければいけませんでした。
顔映りのいい角度はどこか、泣く場面ならカメラに伝わるように自分で目線を合わせて涙を流すのです。今ならカメラマンが私たちを追ってくれますが、その頃はウロウロしていると、「お前をきれいに写そうと思ってつくっているんだぞ!」と怒られました。その代わり、芝居がよかったら、目の前にいる監督やカメラマンを泣かせたり笑わせたりすることができます。それがきっとお茶の間にも伝わると信じて、演技を積み重ねていきました。
また、昔は今と違って自分のことは自分でやるのが当たり前。撮影の順番がバラバラだったとしても、立っていた位置や台詞と関連した動きは自分で覚えておかないと撮影が滞り、まわりに迷惑をかけてしまいます。
当時はスタジオも寒く、ADさんが山のように抱えているコートのなかから自分の上着を取りに行き、寒さをしのいでいました。暖房の代わりは「ガンガン」だけ。ガンガンとは、石油缶の上部を切り取り、炭で火を起こすたき火用具のことですが、待ち時間はこれにすがるように集まって暖を取っていました。
今のように、スタッフさんが役者一人一人に「椅子をどうぞ」「お飲み物です」「寒いので上着をかけますね」と親切にしてくださる現場に入ると、今の人は恵まれているなあと思いますね。
可能性は無限。自分で有限にするな
ありがたいことに徐々に主演作も増え、順調な女優生活を送っていましたが、20代後半、自分を見失った時期があります。同時期に何本も仕事が重なり、切れ目なくあっちの役になったり、こっちの役になったり。寝る時間もないほど忙しく、“自分”がどこにもいなくなってしまったのです。自分を殺していることに気づかず、もうこれ以上できない…と苦しんでいたとき、ある人に「可能性は無限にある。自分で有限にするな」と言われ、やっと我に返ることができました。
完全に吹っ切れたのは、『お金がない!』という織田裕二さん主演のドラマです。それまでの私は、シリアスな役やお嬢さん役ばかりでしたが、初めて明るくて気風のいい下町娘を演じて、演技の面白さに開眼しました。
その後の『お水の花道』は、六本木の高級クラブが舞台のドラマで、出演者みんなで毎回アイデアを出し合い、ノリノリで楽しむことができました。ショックを受けた顔を表現するために、照明さんにお願いして、「ちびまる子ちゃん」のごとく顔にタテ線を入れる演出をしてもらったり、寝ぐせの悪さをアピールしたくて、メイクさんに頭を鳥の巣みたいにしてもらったり(笑)。バブル時代でもあり、本当に好き放題やらせてもらいました。その辺りから撮影の現場を楽しめるようになった感があります。
40歳で出産。大分と2拠点生活に
その後、37歳で一般の方と結婚(46歳で離婚)。40歳で念願の子どもを授かりました。そのとき、自分にこう問いかけました。「子どもに女優さんのママを見せたいのか、飾らないママを見せたいのか?」。そして、マネージャーが自宅に迎えにきて、車で撮影現場に行く姿を息子には見せたくないと思ったのです。
私自身は偉くもないのに、東京にいるとどうしてもそういう環境になってしまうし、女優として見栄も張ってしまうでしょう。でも、私は明治屋で高級食材を買うタイプでもない(笑)。それで、子どもが生まれて9カ月のとき、大分の実家に帰り、仕事のときだけ上京する2拠点生活を始めることにしました。
事務所とも相談し、実際には子どもが4歳になるまで仕事はほぼやりませんでした。自分のなかでは、いろんなドラマもやってある程度の達成感もあり、「長く休むことで、もう仕事がこなくてもしょうがない」くらいの覚悟がありました。
オンオフ切り替えで子育てと仕事を両立
大分に居を移した理由はほかにもあります。東京に二人でいても、息子は寂しい思いをするだけだと思いました。両親の下で暮らせば愛情をたっぷりもらえます。何よりスーパーに行かなくても、父の育てた安全な農作物がいつでも食べられ、自然のなかでのびのびと子育てすることができます。
一方の私も、仕事を家に持ち込まなくていいので、一緒にいるときは100%息子のママでいられます。移動の間に台詞を覚え、東京に行けば、きれいにメイクしてもらい、みなさんが至れり尽くせりしてくださって、“女優”でいられる。
撮影中はホテルに泊まっているので、身の回りのことは洗濯ぐらい。心置きなく仕事に集中できます。都合が合えば東京の友達と会ってリフレッシュも!
撮影期間が長いと1カ月以上離れることもありますが、息子にとっては私がいないことで、帰ったときの親のありがたみも増します(笑)。オンとオフのメリハリがあり、2拠点生活には利点しか見つかりません。
田舎暮らしは楽しくて忙しい!
大分に移り住んで14年。普段は大分市内の自宅で生活していますが、収穫期になると、車で1時間ほどの畑へ行き、父が丹精込めて育てた野菜や果物を収穫します。
季節ごとに、春はたけのこや山菜、初夏は梅やしそ、夏はきゅうりやゴーヤ、夏の終わりには大分名産のかぼす、秋が深まると柿、栗、冬は大根や白菜…一年中、自然の恵みをいただいています。それを日々の料理や保存食にするのが、母と私の仕事です。農作物で商売をしているわけではありませんが、梅ならコンテナ3個分と採れる量が半端なく多いので、作業も大変です。梅干し、梅しょうゆ漬け、梅酒、梅ジュース、梅はちみつ漬けと手分けして仕込むうちに次の収穫物がきて、休む暇がありません。田舎暮らしはのんびりしている印象ですが、財前家は朝から晩まで大忙し。保存用の大型の冷蔵庫が3台あります。
家庭でできる自然療法を東城百合子先生に学んでからは、どくだみやよもぎで虫よけスプレーをつくったり、ビワの葉で化粧水をつくったり。安全・安心な旬な作物で手づくりしているので、家族はみんな健康です。
ありがとうファイルに大事なものをひとまとめ
息子の中学受験の年、「ママも資格を取るから、お互いにがんばろう」と言って、50歳で心理カウンセラーや終活ライフケアプランナーなど六つの資格を取得しました。
終活といえば「エンディングノート」を思い出しますが、どうしても“死”を意識してしまいます。もっと気軽に、大事なものを一つにまとめる方法はないかと考え、思いついたのが「ありがとうファイル」です。
私のファイルには、自分と家族の終末期のライフプランだけでなく、カード類や診察券などのコピーから、住所録、防災避難チェックリスト、お金のこと、残したい母のレシピまで入っています。これさえあれば、いざというとき「あれどこだっけ?」がなくなり、本人だけでなく家族も安心です。今は、「ありがとうファイル」のトークショーなどの活動も行っています。
この先は、さらに自給自足を進めていきたいと思っています。目指すところは「ゆるぎない自分」をつくること。お金では買えない生きる力と、つくる時間を大切に、これからも家族と暮らしていきたいですね。
(都内の事務所にて取材)
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