“だめんず”… やっぱり…
- 倉田 真由美さん /漫画家
- 1971年生まれ、福岡県出身。一橋大学商学部卒業後、『ヤングマガジン・ギャグ大賞』に応募して大賞を受賞。ダメ男を好きになる女性たちを描く『だめんず・うぉ~か~』のブレイクを皮切りに、漫画・エッセイなどの執筆のほかに、テレビ・ラジオ出演、トークショーと多方面で活躍。今年、スタートしたTwitter(@kuratamagohan)では不定期で漫画も発表。弁護士・三輪記子さんと始めたYouTube「みわたまチャンネル」も人気。
ドラえもんや忍者に憧れていた少女時代
子どもの頃は夢見がちで、大好きなドラえもんのように空を飛ぶことを本気で夢見ていました。あるときは忍者に憧れ、修行だと思ってロウソクのロウを腕に垂らし、熱いのをがまんしたこともあります。
今、考えれば、何か特別なものになりたかったのだと思います。父親は銀行員だったのですが、仕事が楽しくなさそうだった。それで、父のような生き方はしたくないと、反面教師になってくれたのかもしれません。子ども心に「サラリーマンにはなりたくない」と思っていました。
漫画は読むのも、絵を描くことも好きでした。中学生ぐらいから恋愛ものの少女漫画を描き始め、出版社に投稿。毎回、「今回は絶対大賞だ」と自信を持って応募するのですが、結果はいつも選外。それでも「次こそは」と、高校時代まで応募し続けました。
「将来はプロの漫画家になりたい」と思って描いていました。ただ、本格的な絵の勉強をしたことはなく、奥行きのある構図や、立体的なバランスなど、理屈ではわかってもうまく紙に落とし込めない。技術的には未熟だったと思います。
漫画を忘れてリアル恋愛に走る!
最後に少女漫画を投稿したのは、一橋大学の受験の前日です。それまでは福岡の実家から郵便で送っていたのを、初めて出版社に直接持って行ったのです。
最初に行った集英社ではけんもほろろに追い返され、次の講談社では作品を読んでくれた編集者から「とりあえず受験をがんばりなさい」と言われてしまった。それでも持ち込んだことを評価され、初めて5000円の賞金をいただきました。
しかし、大学に入ると大学生活が楽しすぎて、漫画どころではなくなりました。サッカー部のマネジャーをやっていたのですが、キャプテンに片思いをして、「少女漫画の世界が今、自分に降りてきた!」とばかりに、どっぷりとリアルの恋愛にハマっていったのです。
戦略的な描き方で「ギャグ大賞」受賞
その後、留年して大学5年目の就活期、「どうせ行くなら出版社かな」と片っ端から受けました。当時の出版・マスコミはすごい人気で合格はもらえず、唯一、最終面接まで残ったのが山一證券でした。ところが、面接官に志望動機を聞かれ、「歯医者が近かったから」と答えて、ここでも落とされてしまいました。
落ちた理由はほかにもあったでしょうが、結果的にはそれでよかったのかもしれません。就職がうまくいかなかったことで、「漫画家を目指す」という目標が再び浮かび上がってきたのです。
ただし、今までのように好きなものを描くのではダメだと。私は絵が下手だから、下手な絵でも描けるのはギャグ漫画だと照準を定めました。
そして、講談社『ヤングマガジン』のギャグ大賞への応募を決め、この雑誌ならどういう漫画がウケるのか、とにかくデビューしたい一心で戦略を立てて臨みました。すると、運よく大賞を取ることができたのです。
アルバイトで食いつないだ20代
23歳でようやく漫画家としてデビューし、漫画だけで食べていけると思いきや、それは甘い考えでした。
大賞作品はそのまま連載になるのが慣例だったのですが、私は連載をもらえませんでした。ようやく決まった連載は同じ講談社の女性漫画誌で、毎月の原稿料は月3万円弱。生活費のために、麻雀荘でメンバーのアルバイトをしたり、塾の講師をしたりして食いつなぎました。
漫画で月収15、16万円稼げるようになったのは20代後半。それでもしんどい生活でしたが、漫画以外の仕事を生業にしようとは思いませんでした。私は自分を主人公にした体験漫画を主軸にしていて、それが面白かったからというのもあります。
自分のだめんず歴をさらした漫画が大ヒット
ちゃんと食べられるようになったのは、やはり『だめんず・うぉ~か~』の連載が始まったおかげです。週刊連載は夢でしたから、本当にうれしかったですね。
私の描いた別の漫画をたまたま目にした『週刊SPA!』の編集長が、「この人にやらせてみたら?」と。鶴の一声だったそうです。私のように実績のない漫画家がいきなり連載ページをもらえるのは異例。「ここでがんばるしかない!」という心境でした。
だったら何を描こうかと考えたとき、これまで私が友達に話してもっとも受けたのは、過去のダメ男の話だったことを思い出し、恥をさらすことにはなるけれど、「ここで人生を賭けないともうあとがない!」と、思い切ってダメ男にスポットを当てることにしました。
虚言癖男に暴力男、ヒモ男といったダメ男を『だめんず』という言葉でカテゴライズし、だめんずばかりを愛してしまう女性を『だめんず・うぉ~か~』と名付けたことで、世間的にも『だめんず』が定着。ネーミングは重要で、ざっくりとある概念に名前をつけるといきなりわかりやすくなる。それでうまくいったのだと思います。
さらに、私が読者と共有したかった「だめんず経験をしたのは私だけじゃないんだ!」という共感と、「私なんかたいしたことないんだ!」という安心感を得られて、自分自身も救われました。
出産直後も病院で連載を描き続けた
結果的に連載は13年間続き、途中、一度も休みませんでした。出産直後の病室でも描いていて、自分でもそれはすごいなと思いますが、フリーランスの漫画家としては、レギュラーの仕事を失うことのほうが怖くて、休むなんてできなかったのが正直なところです。
ただ、終盤はちょっとしんどかった。だめんずにハマってしまう女性の生態を描くに当たって、毎回、取材をするのですが、数を聞いてくるとだんだん刺激に慣れてしまい、みずみずしい驚きがなくなってきたのです。
また、私自身の年齢もあったと思います。28歳で連載がスタートして10年ぐらいは、自分が恋愛市場にどっぷり浸かっていた分、だめんずに対する怒りもあった。ところが年齢を重ねてくると、「そんな奴もいるよね」というようなマイルドな感情も出てきて。それが作品としての勢いに影響し、読者にも伝わったのかなと思います。
世間的にはだめんずの夫との再婚で知ったこと
『だめんず・うぉ〜か〜』が終わる少し前に再婚。相手は映画プロデューサーで、私との結婚直後、映画会社をつぶして自己破産、離婚歴3回、過去に600人とセックス経験があるという、クセの強いだめんずです。
でも、私とは合う人でした。生活を考えればもちろんお金はあるほうがいい。ただ、お金以外、私にとってはどうでもいいこと、何も影響がないことだとわかったのです。
だからといって、私の心が広いわけではありません。むしろ男性の好みはうるさいほうだと思います。相手にされて一番嫌なのは、私のやり方に文句を言われること。もしくは、私の行動にあれこれ口出しされること。私も相手のやり方に一切口は出さない。だから向こうにも出してほしくないというのが、私の絶対譲れない線なのです。
反対に、それだけ守ってくれる人となら心地よく暮らしていける。あとは、相手の人間性を正しく理解して、受け入れるというのが私の思う愛情です。それは、相手がたとえば「別れたい」と言ったら、それすら受け入れる覚悟を持っているということです。そういうことまで含めて相手の選択を受け入れるという気持ちでいると、相手からも「一緒にいてとても楽だ」と思われる。うちの場合は、それが夫婦円満の秘訣(ひけつ)だと思っています。
意外だったのは、夫が本物のイクメンだったこと。娘の習い事の送迎、小学校の保護者会への出席、学校からもらってくるプリントのチェックもすべて夫がやってくれます。ママ友からは、「お宅にはママが2人いるね」と言われます(笑)。
Twitterでデジタル漫画に挑戦
最近、Twitterを始めて、不定期で4コマ漫画もアップしています。デジタル漫画の練習を始めたのは2年前の48歳。最初は、本を読んでも、動画を見ても、漫画ソフトの使い方講座に通ってもまったく歯が立たず、1年ほどが経過。ところが、「私もデジタルで漫画を描きたい」という友達と3人で集まり、お互いに教え合いながら描くようになったらみるみる上達して、仲間の存在の大きさを実感しました。
技術的なことが身につくと、私は絵が雑だから、何回も描き直しがきくデジタルが思いのほか向いていることもわかりました。新しく始まるウェブ連載でも、デジタル漫画作品を描く予定です。
2年前からは、弁護士の三輪記子さんと「みわたまチャンネル」を開設し、YouTubeにも参戦。そこで恥ずかしげもなくギャルメイクに挑戦したり、ビキニで川遊びをしたりして、自分たちで面白がっていますが、それも50歳という年齢が許してくれるのかなと思います。年齢を重ねるよい点は、いろいろなことに抵抗感がなくなること。自由度が増してくるこの年代を、もっと楽しんでいきたいですね。
(都内にて取材)
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