『Shall we ダンス?』が人生の転機 踊りで稼ぐ自信が持てた
- 草刈 民代さん/女優
- 1965年東京都生まれ。8歳からバレエを始め、81年、牧阿佐美バレヱ団に参加。87年『白鳥の湖』の主役を務めて以降、主要バレリーナとして活躍。2009年の『Esprit〜ローラン・プティの世界』で現役を引退。女優としては1996年、映画『Shall we ダンス?』に主演。2009年、本格的に女優活動を開始。12年の映画『終の信託』で、日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞した。最近ではドラマ『大恋愛〜僕を忘れる君と』『私の家政夫ナギサさん』(TBS)『イチケイのカラス』(CX)など話題作への出演が続いている。
ワンピース:PLAIN PEOPLE
ピアス:VENDOME BOUTIQUE
スタイリスト:宋 明美
ヘアメイク:齋藤 美紀(SINCERELY)
ジャネット・リンに憧れてバレエ教室へ
「バレエを習いたい!」とひらめいたのは小学2年生のときです。きっかけは、その少し前に開催された札幌オリンピックで「銀盤の妖精」と呼ばれたフィギュアスケーター、ジャネット・リンの踊りに魅了されたこと。しかし、親にはすぐには言い出せませんでした。
私は幼いころからじっとしていない子どもで、興味を引かれると一つのことに夢中になるものの、それ以外はまったく無頓着。夢中でやっていたこともパッと飽きて、また次の興味に移るようなところがありました。
一方、2人の妹、特に上の妹は私と真逆で、机の前に座って動かず、習字に打ち込むような集中力があり、比較されることも多かった。常に落ち着きがなく、母に叱られてばかりの私が「バレエを習いたい」と言っても、「どうせすぐ飽きちゃうでしょう?」と言われるのがオチで、信用してもらえないのではないかと不安に思ったのです。
ある日、意を決して切り出すとすんなり受け入れてくれ、少々拍子抜けしましたが、憧れのバレエ教室に通うことができてうれしかった。まだ本物のバレエを見たこともなかったのに不思議ですが、稽古初日から、私のなかには「大人になったら踊る人になるために、今から訓練をするんだ」という意思がありました。
高校を1カ月で辞めバレエ漬けの生活に
いったんバレエを始めると、どんどん集中力が発揮され、4年生ぐらいから落ち着きが出てきたように思います。5年生で牧阿佐美バレヱ団傘下の橘バレヱ学校に移り、一週間休みなく教室に行くほどのめり込みました。バレエという拠り所が見つかり、一生懸命稽古に通う環境に心地よさを感じていたような気がします。
毎日、踊っていると、先生に言われたことを習得するのはさすがに早かったですね。バレエの基本姿勢が身につくまでは我慢や忍耐を強いられますが、それでやめてしまう人も多かった。私は、「踊る人」に近づくためにつらいのは当たり前だと思っていました。それが“適性”であり、私はバレエに向いていたのだと思います。
16歳で牧阿佐美バレヱ団の活動に参加するようになり、高校は1カ月で退学。夢中で稽古をし、舞台の上で踊り、文字通り「バレエ漬け」の生活を送っていました。
バレエへの理解を世間に広める代弁者に
世間に注目していただいたのは、10代で広告に出たことがきっかけだったと思います。
結婚式場のポスターが最初で、それを見た週刊誌から取材が入ったり、CMの話がきたりと露出が続きました。私自身はバレエ以外のことで注目されるのは気が進みませんでしたが、先生の勧めもあり、表に立つようになったのです。
20歳ごろからようやく主役を踊る作品が増え、「バレリーナとは?」「バレエとは?」という質問を多く受けるようになりました。当時は、「バレエはお嬢様芸の延長」「バレエといえば『白鳥の湖』」というイメージが先行していましたが、本物のバレエはお嬢様芸で踊れるものでも、古典バレエだけがバレエでもありません。もっとリアルにバレエを知ってもらいたいと、「今のダンサーが踊りをどう捉えているか」を意識した発言を心掛けたつもりです。どの時代にも本質を理解してもらうための代弁者は必要で、当時の私も、その役割を担った1人だったのではないかと思います。
『白鳥の湖』は得意ではないけれど
そうは言っても、『白鳥の湖』は紛れもない名作であり、これが踊れなければ世界で認められないのも事実です。
私はむしろ、20世紀を代表する振付家ローラン・プティ作品のように、古典の解釈を広げたドラマ性の高い表現を得意としていました。しかし、外国人のなかに入っても『白鳥の湖』をぎりぎり踊れるクオリティーは持っていましたので、20代のうちから客演という形で世界各国のバレエ団で主役を踊る機会を得ました。なかでもロシアのレニングラード国立バレエには、13年間にわたりゲスト出演しました。こうした貴重な経験が、バレリーナとしてのレベルを押し上げてくれたと思います。
映画出演、結婚を機にプロ活動の道を開拓
世界レベルの技術・表現力を目指して努力する一方で、20代の私は、「なぜ踊るのか?」という疑問を抱えていました。
ヨーロッパと違い、日本にはダンサーとして雇用される場所が極端に少なく、安定したお給料がもらえる仕事とは言えません。一生懸命やっても、わかってくれる人は一握り。とはいえやめるきっかけもなく、気持ちが安定していないせいか、ケガも多かった。ついには、椎間板ヘルニアを患い、約1年間、踊ることができませんでした。そんなとき、人生の転機となった映画『Shall we ダンス?』にたどり着いたのです。
私の場合は、映画に出たことで一般の人にも名前が知られ、人との出会いもあって踊りでもいろいろなチャンスをもらい、日本でのプロの道を開拓できたのだと思います。
一番大きく変わったのは、「踊りで稼ぐ」自信が持てたこと。映画を機に結婚した主人(周防正行監督)の協力もあり、40歳からはプロデュース公演も手がけ、自分がやってみたいことで、これまでやれなかったことを実現できました。
引退までの3年間がもっとも充実していた
だんだん体が動かなくなり43歳で引退しましたが、特に最後の3年間は「自分は踊り手だ!」という実感を伴う経験ができました。
まず、レニングラード国立バレエの客演を通して、ロシアの大スターだったアラ・オシペンコさんに古典のレパートリーをみていただく機会がありました。もっと早く出会っていたら、もっと良く踊れたなと思いましたが、若いときには出せなかった何かが確実に出せました。自分にとって集大成の踊りを舞台で披露できたと思います。
それで上り調子になり、引退公演という名を借りて、自分のやりたいプロデュース公演をやったのです。ローラン・プティの作品集で、プティ先生自らリハーサルしていただき、「やめるなんてもったいない」と言われたときは、「ああ、私、本当にやめちゃうんだな…」と思いました。でも、引き返す場所はもうありません。最後だからこそ、「私の踊りを見て!」ではなく「日本でもこういうプログラムを組むことはできる!」という挑戦をしたつもりです。
やれることをやり切って、その勢いのまま次の女優業へと踏み出せました。
どの世界でも残るのは自分を追い込める人
自分に与えられた役柄をつかみ、人物を造形して表現するという意味ではバレエも芝居もベースは同じだと思います。
そして、監督からのオーダーにどれだけ即座に反応できるか。その瞬発力と集中力を発揮するために何が必要かというと、自分で自分を追い込むこと。華やかに見える演技の世界も、残っている人はみなさん陰で相当な努力をされているのではないでしょうか。
私自身、限界まで自らを追い詰めて結果を出してきたバレリーナ時代の経験が、この世界でも生きていると思います。ただし、踊りは声を出さないので、そこはハンデがありました。声に伴う筋肉がうまく反応しないのです。たとえば、腹筋をゆるませるまでには10年近くかかりました。今のほうが役者っぽく見えるのは、土台の体が変わってきたからだと思います。
この9月には『物理学者たち』という舞台が控えています。演出家のノゾエ征爾さんはご自身のセンスを盛り込んで物語を面白くするのが得意な方です。自分が参加することで、何か新しいものを引き出していただけるかなという期待感があります。
今、大変さを味わえることが幸せ
今夏は女優業と並行して、踊りの公演もプロデュース&出演することになり、これまで以上に自分を追い込んでいます。
昨年来のコロナ禍で、踊る場所を失ってしまったダンサーたちに呼びかけ、ジャンルの違う8人の舞踏家によるダンス動画『chain of 8』を公開したのですが、それが『INFINITY DANCING TRANSFORMATION』という舞台公演へと発展することになったのです。
この年で踊るとはまったく考えていませんでしたが、ますます忙しくなり、最近は主人が私に代わってご飯を作ってくれるようになりました。
しかも映画監督という職業柄か、研究熱心で凝り性。最初は動画で見つけたメニューを試していましたが、学習するのも早くて、今ではアレンジメニューを3パターンぐらいこなすまでに腕を磨いてこちらがびっくり(笑)。買い物から料理、片付けに至るまでの手際もどんどんよくなり、それを横目で見ているのが忙しい合間の楽しみでもあります。
仕事がどんなに大変でも、年齢を重ね、さまざまな経験を積み上げきた自分だからこそ巡ってきたチャンスであり、そこに価値を感じます。価値を感じれば自ずと準備も入念になり、良い結果が生まれるのです。その繰り返しが、私にとっての“幸せ”かもしれません。
(東京都港区のスタジオにて取材)
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