バブル世代の“流行の発信者” 鎌倉暮らしを楽しむ
- 甘糟 りり子さん/作家
- 1964年横浜生まれ。3歳から鎌倉在住。ファッション、グルメ、映画、車などの最新情報を盛り込んだエッセイや小説で注目される。『産む、産まない、産めない』(講談社文庫)は、妊娠・出産がテーマの短編小説集として大きな話題を集めた。ほかに、鎌倉暮らしや家族のことをつづったエッセイ『鎌倉の家』(河出書房新社)、食に関する『鎌倉だから、おいしい』(集英社)など、著書多数。
本に熱中するあまり歩道を外れて車と接触
子どもの頃から物語が好きでした。小学生のとき、熱中するあまり本に頭を突っ込むようにして歩いていたら、歩道からはみ出して車と接触したこともあります。幸いほんのかすり傷でしたが、車を運転していた方はさぞ驚かれたでしょう。
絵本を読んでいた時期は、中川李枝子さんの作品が大好きでした。特に好きだったのは、『いやいやえん』や『らいおんみどりの日ようび』、『ももいろのきりん』。日記を書くのも好きで、その中に中川さんの影響をかなり受けたと思われる『みずいろのクジラ』というタイトルの物語めいたものもあります。まだ「作家」という言葉を知らずに、「大きくなったら『お話作り家』になる」と言っていたらしいです。
『anan』を読んでファッションに夢中に
ただ、中高生になると、書くことを仕事にするのは大変そうだなと思うようになりました。その頃、母が『週刊文春』の暮らしについての連載をしていたのですが、締め切りが近づくと、暗い顔をしてじっと机に向かっていた光景を思い出します。机の周りには、書き損じてくしゃくしゃに丸めた原稿用紙がたくさん転がっていました。
昔はパソコンもなく、原稿はもちろん手書き。おまけにFAXもなかったので、書き終わると郵便で送るのが常でした。あるとき母に、「編集部宛ての封筒をポストに投函して」と頼まれたのですが、私はすっかり忘れて封筒を学校の机に置きっぱなしにし、大騒ぎになったことがあります。編集者から何度も問い合わせがきて大変だったとか。ずいぶん怒られました。そんなこともあって、「締め切りがある仕事って、面倒くさくて嫌だな」と思ったのかもしれません。
当時の私は、おしゃれに夢中でした。小学生の頃からでしょうか、父が雑誌『anan』の編集をしていたので、最新号がよく家にありました。それを読むうち、「流行のお店」や「ファッション」に興味を持つようになったのですね。
ひょんなことから情報誌のライターに
そんな私が執筆の仕事を始めたのは、たまたま友達に誘われた取材がきっかけでした。玉川大学を卒業し、アパレルメーカーのBIGIに就職しましたが、1年で退職。家でぶらぶらしていたとき、情報誌の編集者になっていた同級生から「ディスコの取材についてきて」と頼まれたのです。
「何か聞けたらあなたもメモしておいて」と言われ、お客さんとして来ているときはDJの人にゆっくり質問なんてできないから、いろいろ聞いたらあちらも喜んで話してくれました。それをノートに書き込んで渡すと、それを見た同級生が「仕事でやればいいじゃん。タダでディスコに行って、聞きたいことを聞いて、記事にしたらウン万円だよ!」と。正直、「なんて楽勝でおいしい仕事なの!?」と思いました(笑)。
しかし、父も雑誌の編集者なので、私が同じ業界で仕事をすることをあまりよく思わないかもしれない…と聞いてみたら、「何でもいいから、とにかく外に働きに行きなさい」と。それからフリーライターとして、いろいろな雑誌の編集部に出入りするようになりました。
学生時代からの遊びの蓄積で、東京の新しいレストランやカフェ、ディスコ、流行しそうなモノ、コトに関する情報だけは豊富に持っていたので、いろんな編集部で重宝がられましたね。
東京の最新事情といえばこの人!
当時はバブル期の真っただ中。世の中を俯瞰し、トレンドの実況中継をしている感覚。加えて、流行りを仕掛ける役割も担っていると自負もありました。たとえば、夜のカフェが元気だった80年代後半、「夜お茶」という言葉を思いついて、あらゆる雑誌に書くのです。すると、それがさもあちこちでいわれているように見え、“流行”として認知されるわけです。
自分の名前で雑誌のコラムやエッセイを執筆するようになったのは、30歳を過ぎた頃。ファッション、グルメ、車などの最新情報を盛り込んだ読み物が好評で、一番忙しかったときは、締め切りが月に30本近かったこともあります。
今となっては信じられませんが、毎日、だいたい夕方から街に遊びに出かけ、夜中に帰ってきてお風呂に入ってお酒を抜き、明け方から原稿を書き始めてお昼に寝るという夜型生活が何年か続きました。
まだ記憶が残っているうちに、あの時代の東京の華やかさ、急速な街の変化を書き記したいという気持ちが強く、『バブル、盆に返らず』という本が6月末に刊行になります。
「これは本にする価値はありませんね」
その後、忙しく原稿を書く合間に書きためてあった雑文を幻冬舎の編集者・石原正康さんに読んでいただいたことが、小説を書くきっかけになりました。
初めてお会いして、開口一番、「この原稿は、本にする価値はありませんね」と言われたものの、少しの間、雑談する中で、石原さんが突然「小説を書いてみたら?向いていると思いますよ」とおっしゃったのです。
「15分しか話していないのに、どうしてそんなことがわかるんですか?」
「僕も一応、その道のプロですから。甘糟さんは、言葉が意識の外にあるタイプだと思う。そういう人は物語を作れるんです」
実際に小説を書き始めたのは1年ほどたった頃ですが、ある日、ふと石原さんの言葉を思い出し、短い物語を書いて送りました。それが転機となり、小説家としてデビュー。
ただし、初めての原稿は赤字(編集者からの訂正指示)だらけ。自信満々で送っただけにショックでした。でも、いただいたFAXはある意味、作家の原点であり、自分への戒めです。ずっと大事に取ってあったのですが、感熱紙なのでだんだん読めなくなって、ほぼ真っ白に。写真でも撮っておけばよかったと思います。
42歳でロンドンマラソン完走
40代に入り、初マラソンを経験しました。当時はまだ、マラソン、ランニングは地味でまじめな印象のスポーツで、おしゃれ感ゼロ。私が走り始めると、周りには「どうしちゃったの?」と驚かれましたね。
『肉体派』という小説を書いた頃で、ちょうどトレーニングや食事制限にハマっていたのです。テニスにも夢中になったのですが、続けて捻挫してしまい、人工靭帯をつける手術をしました。そのリハビリで走り始め、1年後のロンドンマラソンを目標にしました。アディダスにも協力してもらい、ジョギング、マラソンをテーマにした連載も2本始まりました。そのうちの1本は、「完走しなければ本の刊行もなし」という条件付き。夜遊びをやめ、社交もほとんどせず、健康的な生活にシフトして、練習を重ねました。
マラソンは無事完走。もちろん本は刊行されましたよ。その後、ジョギングがおしゃれなスポーツとして女性の間でブームに。「どうしちゃったの?」と言っていた人たちも結局、走り出しました(笑)。
私の中にも変化がありました。新しいトレンドを追いかけ、変わってばかりいると、変わることだけで満足してしまうし、気も散ります。それより毎日同じことを繰り返す方が自分の変化に気が付けるのです。新鮮な感覚でした。一歩ずつ積み重ねて42キロになるマラソンと、一行一行書いて物語ができていく小説とは共通のものがあると思います。
マラソンを経験した翌年、生活拠点を都心の高層マンションから鎌倉の実家へ移しました。最初で最後のフルマラソンは、自分の暮らし方を見つめ直すきっかけにもなったと思います。
鎌倉の家で季節の移ろいを楽しむ
今は母と一緒に暮らしています。実家は数寄屋造りの別荘だった建物で、私が中学生のとき、合掌造りの梁(はり)を移築して家の一部を改装しました。反対側は蔵造り風になっていて、日本建築の代表的な様式が一軒になっています。
基本が古い日本家屋なので手入れが大変。しょっちゅう改修工事をしています。夏は暑くて、冬は寒い。虫もたくさんいます。それだけ季節をダイレクトに感じられるということでもありますね。時々の花を飾ったり、庭で採れるものを料理に使ったりして、季節を楽しんでいます。
春になると、野草の料理で親しい人たちをお招きするのがわが家の恒例。3年前、母が毎年つけていた献立ノートを譲り受けました。最近は私が母の真似をして、友人たちを招いて摘み草料理を作ります。
一番の自慢は庭に自生している山ウド。掘ったばかりの山ウドの根を氷水に漬け、塩や味噌をつけて味わいます。えぐみが出てしまうので、2、3時間が限度でしょうか。これだけは東京の高級レストランでも食べられない“春の味”だと思います。
最近は、緑茶をおいしく入れることに気が向くようになりました。50年以上付き合いのあるお茶屋さんに、あらためて茶葉の量や蒸す時間を教わったので、毎朝、慎重に入れています。
自宅で過ごす時間が増えた今日この頃。こんなときだからこそ、ゆっくりした時間をつくって、気分転換するのもいいのではないでしょうか。
(神奈川県鎌倉市大船にて取材)
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