今までに感じたことのない一体感 「オグシオ」ペア誕生!
- 小椋 久美子さん/元女子バドミントン選手
- 1983年三重県生まれ。8歳の時、地元のスポーツ少年団でバドミントンを始める。2000年に全国高校総体でダブルス準優勝、01年の全国高校選抜でシングルス準優勝を果たす。三洋電機入社後の02年には全日本総合バドミントン選手権シングルスで優勝。その後、ダブルスプレーヤーに転向し、北京オリンピックで5位入賞、全日本総合バドミントン選手権では5連覇を達成。10年に現役を引退。現在は解説や講演、子どもたちへの指導を中心にバドミントンを通じてスポーツの楽しさを伝える活動を行っている。
のんびり育った子ども時代
私が育った三重県の実家の周りには広い空き地が広がっていて、小さいころは、よく外遊びをしていました。
両親が特別何かのスポーツに携わっていたということもなく、ごくごく普通の家庭で、きょうだいは姉・兄・私・弟の4人。8歳のとき、地元のスポーツ少年団に通う姉と兄と一緒に、バドミントンを始めました。当時サッカーにも憧れていたのですが、残念ながら男の子だけで女の子は参加できませんでした。
コーチは地元のおじさんたち(笑)。おそらく、会社勤めをしながら、ボランティアで指導をされていたのだと思います。細かな技術の指導はあまりありませんでしたが、たくさん試合をして、とにかく楽しくバドミントンをしていました。
中学2年生で全国3位に
そんな環境でしたから、バドミントンの全国大会に出場しても、優勝したいとまでは思っていませんでした。
中学2年生のとき、同世代に全国レベルでものすごく強い選手が2人いました。私は「その2人には勝てないから3番でいいや」と、最初から銅メダルを目指していたのです。だから3位になった時点で、大満足。そんな気持ちだから決勝に進めなくて、試合後に監督からとても叱られました。でも、自分的には目標を達成したという気持ちだったのです。
わが家は、兄も姉も地元の高校に進学していましたので、当然、私も同じ高校に進んで、将来は地元の短大で資格を取って保育士さんになるというのが夢でした。
中学1年生のときにアトランタオリンピックがあったはずなのですが、夜9時には寝ている子だったので見た記憶がないですね。当時はオリンピックが4年に1回ということも知らなかったぐらい。バドミントンはテレビ放送がなかったので、オリンピックが身近に感じられなかったのだと思います。
そんな中、転機がやって来たのは中学3年生の秋。
いくつかの強豪高校から推薦のお話をいただき、中学卒業後、私は実家を出て大阪の全国的強豪校(大阪・四天王寺高校)に進学することになりました。
徹底的に鍛えられた高校時代
高校の監督は厳しい方で、練習も全国レベルの強豪校だけあって、ハードでした。部員はいちばん多い時で8人。でも、不思議と、どんなに叱られても「この人は本当に私たちを強くしたいんだな」という気持ちが伝わる、愛情を感じる指導でした。当時の監督とは、今でも交流が続いています。先日、久しぶりにお会いしたら、拍子抜けするくらい優しくなっていました(笑)。
私は寮生活だったのですが、年末年始しか休みはなく、帰省はそのときだけでした。
高校2年の9月、身内に不幸があって帰省することになったのですが、たまたまその前にあった試合を両親が見に来ていました。
私は試合で泣いたことはほとんどないのですが、その時だけは、負けてコートで泣いてしまいました。ケガをしていたということもあるのですが、体よりも心が折れてしまったのでしょうね。
試合後、両親と一緒に実家に帰った私は、「憂うつだな。もうやめたいな」とポロっとこぼしてしまいました。すると父が「やめてもいいよ」と言ったのです。その、父の意外な言葉に私はハッと我に返りました。まさかそう言われるとは思っていませんでしたから。
「私は自分ひとりでバドミントンをやっているんじゃない。地元三重の学校にも両親にもたくさんお世話になってきた。だから卒業まではがんばらなきゃ。今、やめちゃダメだ」と思い直したのです。
オリンピック出場が目標に
後にペアを組む玲ちゃん(潮田玲子さん)とは高校1年の冬、代表合宿の練習で初めてダブルスを組みました。今までに感じたことのないピッタリとはまるような感覚を感じたことを覚えています。その後、ジュニアの国際大会で何試合かペアで試合に出場しました。
ちょうどそのころシドニーオリンピックがありました。柔道の野村忠宏さんが金メダルを取った試合をテレビで見て鳥肌が立つほど感動、オリンピックが一気に身近なものになりました。「2人でオリンピックに出られたらいいね」と玲ちゃんと話すようになったのもこの頃だったと思います。
そして、高校卒業後は同じ企業(三洋電機)でダブルスを組み、アテネオリンピックを目指すことになりました。
「オグシオブーム」の渦中で
「オグシオ」は、チームの練習中に使われていた単なる呼び名でしたが、それがメディアで使われるようになると、「オグシオ」として皆さんに認知されるように。
私たちはいつも2人でひとつの「オグシオ」でした。それぞれの名前も覚えていただけていなかったのかなと思います。
はじめのうちは注目してもらえてありがたいなと思っていましたし、練習スケジュールをこなしながらの取材も、バドミントンを世の中に広く知ってもらうための使命と思って頑張っていたと思います。
でも、試合直前になっても超過密なスケジュールで取材が入ってくるようになると、だんだんつらくなってきて。一度だけチームに自分たちの気持ちを訴えたことがありました。
当時はバドミントン界を盛り上げるために私たちもチームもそれぞれが皆、毎日必死に走っていたのです。それで忙しすぎて、お互いのコミュニケーションが不足していたのかもしれません。
でもこの時、思い切って本音を伝えたことで、チームも私たちの思いを理解してくれました。選手の立場を尊重して守ってくれたことに感謝しています。
引退後広がった視野
最近は海外の試合現場へ行く仕事が増え、自分の視野が広がっていると感じますね。
現役時代は「強くなるために何をすべきか」といった、自分に必要な情報以外はあまり受けつけていなかったように思います。今、振り返ってみれば余裕がないというか、不器用だったなと。もっと広い視野で物事に取り組んでいたらもう少し違っていたのかな、と思ったりします。
海外には試合で何度も行きましたが、今は、プライベートでひとり旅に出かけます。この間はプラハ、ブダペスト、ウィーンをまわってきました。教会など、ヨーロッパの建築が好きで、時代背景を想像しながら大聖堂を見て、細部のこだわりも国によって違うなとか、そういう発見を楽しんでいます。
地元の力に支えられた「小椋久美子杯」
今、三重県の観光大使とスポーツ大使という2つの大使を拝命し、地元で「小椋久美子杯」という小中学生の大会を開いています。今年でもう6回目になりますが、バドミントン連盟をはじめ、県をあげて大会を支えていただいています。
今、こうしてまた地元の三重県でバドミントンに関われていると思うと試合に負けて泣いた高校生のあの時にバドミントンをやめなくてよかった。「頑張り続けること」の意味を感じます。
生(なま)でバドミントンの試合を見てほしい!
バドミントンは、一度生の試合を見るとイメージが変わると思います。「パンパン」というシャトル音も一流選手の試合ともなればすごい迫力です。ネットを挟んだ至近距離でのせめぎ合いも、見どころです。
前もって情報を入れずに観戦しても楽しめますが、私は、何か自分なりの注目ポイントを持って観戦することをおすすめします。少しでもルールを知っておくとか、好きな選手をチェックしておくと、見え方が変わってくると思います。
今、日本のバドミントン界は国際大会で上位を取れる選手が何人もいて、国内の代表枠争いが熾烈(しれつ)です。オリンピックはどの選手にとっても4年に1度の特別な大会。私も、なんらかの形で携われたらいいなと思っています。
最後まで諦めない動きを
今は子どもたちの指導で全国をまわっています。
バドミントンはどうしてもラケット技術に走りがち。でも、特に小中学生のうちは足でシャトルをしっかり追いかけて、最後まで諦めない動き方を身につけてほしいと思います。スマッシュを決めたときはもちろんうれしいのですが、相手のエースショットを粘って粘って追いかけて、ギリギリで拾い上げたときも、とっても気持ちがいいものですよ。
目を輝かせた子どもたちとラリーできる教室は楽しいですね。ケガに気をつけながら、できる限りコートに立ち続けたいと思います。
そして、バドミントンを通じて子どもたちがスポーツを楽しいと思い、始めるきっかけになってくれたらいいな、と思っています。
ポジティブ変換で毎日を楽しく
毎日を楽しく過ごすために心がけているのは、思考をプラスに変える日々の「置き換え」です。
「笑う」って大事ですよね。でも、誰にでも思わぬトラブルが降りかかってきて笑えない時がありますよね。そんな時私は、状況をポジティブなイメージに置き換えて「大丈夫、ダイジョウブ♪」と自分に暗示をかけながらインプットするようにしています。
これをコツコツやっていくといつの間にか自然にできるようになってきます。何かにイラッとした時に、ぜひ試してみてくださいね。
(東京都六本木の国際文化会館にて取材)
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