山口百恵のかたき役を好演 女優としてのステップアップに
- 秋野 暢子さん/女優
- 1957年大阪府生まれ。74年、NHK銀河テレビ小説『おおさか・三月・三年』のウエートレス役でデビュー、その後、NHK連続テレビ小説『おはようさん』のヒロインに抜擢される。TBSドラマ『赤い運命』では山口百恵と共演し、インパクトの強い役を好演。その後、ドラマ、映画のほかバラエティー、舞台など活躍の場を広げる。また、CDやダイエット本の発売、イベント、講演会などを精力的に行い、各地で好評を博している。(アクセサリー:mid.j)
父の借金で店も家も失い、蔵で暮らした
実家は大阪ミナミの呉服屋で、私が5歳くらいまでは比較的裕福だったようですが、父が保証人として知人の負債を負うことになってしまい暮らしが一変。店も家も失い、かろうじて残った蔵で生活することになり、物心ついたころにはすでに貧乏だったので、それが普通だと思っていました。
ただ、借金の取り立てにくる男性の怒鳴り声が子ども心に恐ろしくて、それが原因で吃音になってしまったのです。
父は神戸に身を隠し、知り合いのつてで働き口を見つけ、母が内職で着物を縫うなどして生計をたて、兄と私の面倒をみてくれました。
その後、その蔵を壊して小さな家を建て、1階は人に貸して私たちは2階に住むことに。本格的に芸能活動をするため、18歳で母と上京するまで、その家で暮らしていました。
小学校の学芸会がきっかけで演技の道へ
小学5年生のときはまだ吃音があったのですが、学芸会で『鉛筆の国』という劇をやったとき、今の仕事につながる不思議な体験をしたのです。
私は、“有閑マダムのF”という鉛筆の役を演じるため、出番を待ちながらガタガタ震えていたのですが、まさに舞台に出る瞬間、誰も後ろにいなかったのに、ドン!と背中を押されたような感覚が。そして、つんのめるように中央に出て「Fざんす」と言ったら、ドッと大きな笑いが起きました。
そのとき、体中にビビビッと電気が走ったようになり、稽古では一度もうまく言えなかった台詞がスラスラ出てきたのです。
その後、担任の先生が「この子は吃音があることで自己表現が下手だけれども、別人を演じたら変わる可能性がある。演劇の盛んな学校に入れたらどうでしょう」と、母に助言してくれ、その一言が、私の人生を大きく変えていきます。
潮来(いたこ)の伊太郎〜♪で朝ドラ主役に大抜擢
中学・高校と、演劇で全国大会に出るような学校に通っていたある日、大会の審査員だったテレビ局関係の方から「アルバイトをやりませんか?」と声をかけていただき、大阪の長寿ドラマ『部長刑事』に出演することになりました。
その後、NHKのラジオドラマ、大阪パルコ劇場での2人芝居などをやらせていただいたのですが、17歳のとき、NHKドラマ『おおさか・三月(みつき)・三年(さんねん)』のウエートレス役が決まり、その出演がきっかけで、NHKの朝ドラ『おはようさん』のヒロインに抜擢されることになったのです。
『おおさか・三月・三年』の中でお店の前で水をまくシーンがあり、黙っていても面白くないと、アドリブで橋幸夫さんの「潮来笠(いたこがさ)」を歌いながら水をまいたところ、それを見たプロデューサーさんが「この子をヒロインにしよう!」と決めたとか。あとから聞きましたが、このドラマには若手がたくさん出演しており、実はオーディションを兼ねていたそうです。
小学校の『鉛筆の国』から始まって、先生の助言、親の応援、いろいろな方のご紹介を経て、朝ドラ主役まで。大人が子どもの才能の芽を育てることで、人の人生は変わるのだと、ありがたい気持ちでいっぱいになります。
山口百恵のかたき役 視聴者から嫌がらせ
「朝ドラをやると国民的女優になる」と言われていた時代でしたが、「もっと役の幅を広げてみたい」と思い、次にいただいたドラマの話を聞くと、当時のスーパーアイドル山口百恵さんをいじめる憎まれ役でした。そう、TBSドラマ『赤い運命』です。
ところが、放送が始まると、視聴者からカミソリの入った手紙が送られてきたり、街で子どもから石を投げられたりするように。つらかったのは、母が市場で買い物を断られたことです。私もまだ19歳、だんだんと思い切った演技ができなくなり、この役を引き受けたことを後悔し始めていました。
そのとき、共演者で大先輩の三國連太郎さんがアドバイスをくださったのです。「かたき役に悩んでいるって?全然気にしないでやり通しなさい。その経験が必ず女優としてのステップアップにつながるから」。その言葉に励まされ、一気に迷いが吹っ切れました。
ちなみに、あのときの役の印象がよほど強かったのか、以降、弱い女性の役はほとんどやったことがありません(笑)。
先輩方の叱咤激励のおかげで成長できた
そのあとも、私は良い先輩方に恵まれました。
最初に所属した事務所の社長は、世界的映画スターの三船敏郎さんです。三船さんは気遣いの方で、冬の寒い撮影所ではエキストラさんを大事にし、主役に与えられた一番暖かい場所を譲ってご自分から寒い場所に移られていました。そんな社長を、私だけでなく、みんなが尊敬していたと思います。
同じ事務所の竜雷太さんには、人としてのあり方を教わりました。竜さんとお仕事で大阪に向かう際、私が東京駅の改札を抜けて「はい」とマネージャーさんに新幹線の切符を渡したら、「マネージャーはお前の使い走りじゃない!切符ぐらい自分で持て!」と大阪に着くまでの2時間半、お説教!以来、自分のことはすべて自分でやっています(笑)。
また、左とん平さんのお芝居が大好きで、30代前半のとき、お願いして1カ月間、舞台の付き人をさせていただいた際には、楽屋や劇場への行き帰りにさまざまなことを教えていただきました。
この世界に導いてくださった方々はもちろん、この世界に入ってからもすてきな先輩方に恵まれ、いっぱい叱られましたが、ほめてもいただき、今も感謝しかありません。
一人娘から長文メール やりたいことを見つけた
36歳で長女を出産。彼女が8歳ぐらいのときから1人で育てることになったので、お父さんの役割もしなければならず、かなり厳しい母親だったと思います。
親がこの世界にいると、子どもがよくしてもらえることもありますが、「それはあなたの実力じゃないから、勘違いしてはいけない」としょっちゅう言い聞かせていたり、お小遣いも最低限。小さい頃から「家の洗濯物をたたんだら30円」など、働くことで対価を得られることを教えました。
ちょっとやりすぎたのか、小学校の卒業文集に「うちは学校に行かせるだけで精一杯、家計は火の車だから、お母さんに無理は言えない」と書いてあって大笑いでした。高校から大学までアルバイトも続け、普通の金銭感覚は身についたのではないでしょうか。
そんな娘も大学を卒業し、一般企業に就職。しかし、彼女の今後について親子で真剣に話し合った結果、いったん退職してフランスで1年間、語学留学しながら将来を模索することになったのです。
留学期間が終わる少し前、「やっとやりたいことを見つけた。それに向かってこれから進んでいきたい」と長文のメールが届きました。今は日本に戻り、フラワーアーティストを目指して修行中です。
60代で決意した社会貢献とは…?
若いときは自分のために働いてきましたが、年を重ね、家族ができたら家族のために働き、そして、娘も大人になり親の手を離れていきました。
そのあと、「この世界でお世話になった分、これからは社会に少しずつ恩を返していかなきゃ」と、60歳が近くなったときからずっと考えていましたが、その答えの1つとして、去年5月に立ち上げたのが『一般社団法人0から100』です。
東日本大震災の直後から続けてきた被災地支援をもう少し形にしたいという希望と、「人生100年時代」に、0歳から100歳まで世代ごとの健康をしっかり考える活動をしたいという思いから、設立に至りました。
具体的には、私がつくった健康体操「脳と身体のスマイル体操」やヨガ、美容法などを含む健康普及啓発イベントや講演会を行い、その参加費や企業様からの協賛金を活動費として、災害支援活動を行っています。
芸能活動も従来通り続けていきますが、みなさんにたくさんの笑顔とエネルギーを贈れますよう、がんばっていきます。
寝る前に幸せ日記を書くのが習慣
健康と若さを保つ秘訣は、食事、運動、睡眠、笑顔が4点セットだと、いつもお伝えしています。
食事はバランスよく、色とりどりのものを少しずつ食べ、運動は自分がやっていて楽しいものを見つけることが大事です。歩くだけでもいいので1日20分続けてやってみてください。身体を動かすと脳も動くので、両方のバランスがとれるとぐっすり眠れます。
また、朝、起きたら歯を磨く前に笑ってみる。声を出して「ワッハッハ!」。私の1日はそれで始まり(笑)。そして、1日が終わり、寝る前に『幸せ日記』をつけるのが習慣です。
「お天気が良かった」「庭の花が咲いた」「届けた料理をお友達が喜んでくれた」何でもいいから今日あった幸せなことを1行でも2行でも書くと、1日が幸せに終わります。「私は今日も幸せだった」と思えることが、明日への活力になるので、みなさんも、ぜひ試してみてください。
(都内ホテルの一室にて取材)
(無断転載禁ず)