摂食障害、2浪、留年、休学 女性の苦しみ分かってから産婦人科
- 丸田 佳奈さん/産婦人科医・タレント
- 1981年北海道生まれ。日本大学医学部医学科卒業。産婦人科専門医。2007年度「ミス日本ネイチャー」受賞。現役の産婦人科医という立場と、華やかな外見と親しみやすい性格を生かし、テレビやラジオなどのメディアを通じ幅広く活動。読売テレビ『そこまで言って委員会NP』、TOKYO MX『バラいろダンディ』木曜コーナー「無病息災!バラいろ健康学会」など出演多数。著書は『キレイの秘訣は女性ホルモン』(小学館)など。17年1月、第一子を出産。
教育熱心な母
北海道網走市出身で、15歳まで暮らした実家は、市の中心からは少し離れた新興住宅街にありました。庭にはキタキツネが来て、窓からは流氷が見えるような環境で、両親と私と弟、妹の5人家族で育ちました。
父方の曽祖父が本州から移り住んで大工の組を作り、それを株式会社にしたのが祖父で、父が3代目です。母は網走から近い北見市の出身で、やはり建築関係の家に生まれ、父とはお見合いで結婚。ですので、医療関係者は私以外、誰もいない家系です。
小学生のころから勉強と習い事で忙しい子どもでした。小、中学校を通じて成績はずっと学年トップ。と言っても、ほんとうに田舎の学校のトップですから、たいしたことないのですが(笑)。
母は教育熱心で完璧主義なところがある人。私がやりたいと言った習い事は何でもやらせてくれましたが、「やるからにはきちんと」という主義でした。ピアノに公文、空手やスキーを習ったこともありました。父は仕事で帰宅が遅かったですから、小さいころは顔を合わせることはほとんどなかったです。
13歳で摂食障害に
摂食障害(拒食症)になったのは中学1年生、13歳のときでした。ちょうど安室ちゃんがはやり始めて、みんなミニスカートをはくようになって。
私も影響を受けてはきたいと思いましたが、当時の私は身長161、2センチに対して体重が64キロ。母から「太い脚を出すなんてみっともないからやめなさい」と言われ、いろいろなダイエット法を試してみました。でも、どれもうまくいかず、成長期だからか、食べたらどうしても太ってしまう。それで、「もう食べるのをやめるしかない!」と思い込み、温野菜しか口にしないようにしました。そうしたら体重がどんどん減って。そうなると不思議なことに、ミニスカートなんてどうでもよくなってしまい、数値を下げること自体が快感に変わっていきました。
産婦人科医を目指すきっかけ
いちばんひどかったのは中学1年生から2年生にかけてでした。半年で14キロ落としたら、生理が止まりました。あまりにひどい痩せ方に体育の先生が気づいて「すぐに病院に行け」と。それで、母と産婦人科に通って治療を始めました。生理が戻ったのは3年後。「産婦人科医になりたい」と思ったのはこの時です。
高校は、網走の実家を出て北見の母方の祖父母の家から通学しました。中・高通じて、友達も遊びもゼロ。勉強とダイエットにしか興味がなく、それ以外は必要ないと思っていました。それこそメンタルを病んでいる証拠なのですが、その「変な集中力」があったから勉強を頑張れたのかもしれません。
2浪の末に医学部へ
私は医学部に入るまでに2浪しています。もともと、家族は私の医学部受験には反対でした。祖母は、「なぜ女の子がそんな大変なところへ行くの?お見合いしてお嫁に行けばいいじゃない」と。
そんな状態ですから、「医学部に行くのなら国公立以外はダメ」と私立は受験させてもらえませんでした。それでまず1浪。翌年もダメで2浪が決定。3度目の受験で初めて私立を受験して日大医学部に合格しました。親からは、「自分で志望したのだからしっかりやりなさい」とクギを刺されました。
ところが、これですんなりめでたしめでたしとはなりませんでした。
大学時代に味わった、2度の大きな挫折
大学に入ってからは、ダンスと演劇のサークルに入り、バイトも始めました。試験前にガッと集中して勉強するけれど、それ以外は楽しむという毎日でした。
摂食障害も、ダンスで体を動かしているから多少食べても太らないし、いろいろな楽しみが見つかり友達もできて、ようやく普通に食事ができるようになりました。
ところがその後、私は卒業までに2度、大きな挫折を経験しました。精神的にドーンと落ちて留年と休学を1回ずつ。結局、卒業までは「2浪・1留・1休」という長い道のりだったのです。
1年生は順調だったのですが、2年生で解剖実習が始まるとそこでつまずいてしまって。「頑張っても追いつけない」と自暴自棄になって留年。翌年は気持ちをリセットして復活しましたが、これが最初の挫折です。
2度目は6年生のとき。勉強してもついていけなくて自分の存在に意味を見いだせず、毎日がつらくなりました。現実逃避で部屋に引きこもって寝て過ごすという生活に。この年は休学して、翌年の4月からリスタートを切りました。
国家試験に一発合格
翌年、改めてスタートをきり、なんとかギリギリで卒業が決定しました。
その1カ月後が国家試験。睡眠時間を削って死に物狂いで勉強して一発で合格、この時ばかりは父親も泣いて喜んでくれました。
この落ち込みが、人生で一番つらかった時期です。今、医師・タレント・母と3つを同時にやっているので「大変ですね」と言われますが、当時を思えばたいていのことは頑張れます。
ミス日本に応募したのは最初の挫折から復活した大学4年生のとき。応募年齢ギリギリだったので、記念のつもりでした。地区大会から書類選考が数回あり、全国決勝に残れるのが30人。最終選考に残った5人の「ミス日本」の中で、私は「ネイチャー」を受賞しました。
会場で新聞記者のインタビューを受けた母は、「娘には(医師になるという)本業のほうをしっかりやってもらわないと困る」とコメント(笑)。その記事は記念に取ってあります。
新人医師として働き始める
こうしてギリギリで卒業したので、就職するといってもどこも雇ってくれませんでしたが、国家試験後に2次募集をしていた病院に運よく採用され、研修医として働き始めました。
研修医というのは全部の科を回って経験を積むのですが、その年に入ったのは私一人だったので、周囲からはかわいがっていただきました。
新人なりに自分のやれることを探して頑張っていたし、周りの方も「ありがとう」と言ってくれて、人の役に立っているのだという実感がありました。仕事自体は大変でも、周りとコミュニケーションをとりながら、産婦人科専門医の資格につながる経験を、順調に積むことができました。
夫と出会ったのは、その病院です。学年は私より7年上で、大学からの派遣で来ていた人です。私が入ったとき、彼はすでに常勤ではなく病院から離れていたのですが、担当した患者さんを診るために週1回ほど外来や当直に来ていました。研修医は上の先生について当直にあたるのですが、夫もその当直医の一人でした。
今は別々に働いていますが、同業者夫婦ですからお互いの仕事については理解していますし、子育てにも非常に協力的です。
タレント活動は夫婦二人三脚で
子育て以外にも、テレビのコメンテーターの仕事では、夫の協力がとても大きいです。番組中には医療以外の分野についてもコメントを求められることがあります。そんな場合に備えて、参考になりそうな番組を録画しておいてくれたり、あちこちにアンダーラインを引いた資料を渡してくれたり。おそらく、私がなにか失敗をしでかすのではないかと、心配なのでしょう(笑)。でも、本人も案外楽しんでいるようですよ。
今は、常に自分自身をアップデートしながら、どこまでやれるか、チャレンジのつもりで頑張っているところです。
つらさを一人で抱えないで
産婦人科医としていろいろな年齢の女性を診ていると、40代後半くらいから、つらいことを一人で抱え込んでいらっしゃる方が多いと感じます。この年代の方は、お子さんの受験や親の介護など、メンタルの負担が大きくなってきます。
更年期で通院されてくる患者さんには、「家事は私の仕事と決めつけないで、もっと周りに甘えて手抜きをしましょう。できるだけ時間を作って、趣味や、やりたいことに時間を使えるようにすると、体調も変わってきますよ」とアドバイスします。
そうして2回3回とお話を聞いているうちに表情や様子が明るくなってくると、「お薬に頼るだけが治療じゃないんだな」と実感します。日々の生活の中に、ひとつでもいいので、何か楽しみや達成感が得られるものを持ち続けることが理想ですね。
大きなことを目指す必要はありませんが、生活習慣や気の持ちようを少し変えることで、毎日がイキイキしてきます。それが、人生を長く楽しむコツじゃないかなと思います。
(東京都渋谷区の一室にて取材)
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