努力と美貌で掴んだ大統領夫人の座 パリでは「東洋の真珠」と呼ばれ…
- デヴィ・スカルノさん/社交家
- インドネシアのスカルノ元大統領夫人。東京都出身。日本人で海外の国家元首の妻になったたった一人の女性。インドネシアの政変後、1970年にフランス・パリに亡命。社交界で「東洋の真珠」とうたわれる。91年に米国ニューヨークに移住、UNEP(国連環境計画)の特別顧問として活躍。現在は活動拠点を日本に置き、「デヴィ夫人」の愛称で大活躍している。また、国際的な基盤を活かして、NPOアース・エイド・ソサエティを発足。地球規模で慈善活動を行っている。
幼いころに体験した空襲の記憶
幼い私が初めて知った感情は“恐怖”であり、初めて知った言葉は「B29」です。空襲警報が鳴るたび、小さい弟をおぶった母に手を取られ、青山墓地に掘られた防空壕に避難しました。穴の中の空気はひどく湿っており、したたり落ちる水の音を聞きながら、身を縮めて伏せていたことを鮮明に覚えています。
東京大空襲が始まる少し前、私たち3人は大工の棟梁だった父を1人残して福島県の浪江町に疎開。疎開先は農家ではなかったので、戦争末期のひもじさは尋常ではありませんでした。東京に戻ると焼け野原で、幸い家は残っていましたが、やはり食べ物はなく、足の悪い母に代わって、私が闇屋のおばさんについて農村まで買い出しに行っていました。母と弟を守るのは自分だと、幼心に感じていたのです。
今の私を見て、「デヴィ夫人はいつも素敵なドレスを着て、高価な宝石を身に着け、世界中を飛び回る生活をして、ラッキーね」と言う方がいますが、とんでもありません。私は人の3倍勉強して、人の3倍働いて、人の3倍努力して、人の3分の1の睡眠でやってきました。今でもそうです。私が自分をラッキーだと思うのは、幼いころに体験した戦争と貧しさが、どんな逆境でも生き抜く力を与えてくれたこと。満点の星空を見上げながら、「いつか世界に飛び出し、星のようにきらめく存在になりたい」という夢を抱いていました。
画家になるか、女優になるか
戦後、私の家のそばにはアメリカ軍の駐屯地があり、小さいころから米兵たちを見て育ちました。彼らの話す言葉に憧れ、見ず知らずの外国のペンパルと手紙の交換をするぐらい、英語を猛勉強しました。おかげで、中学生のころ、英語の成績はいつも一番でした。
また、フランス、イギリス、ロシア、ドイツなど、世界の文学作品を夢中になって読みました。『赤と黒』を読めばレナール夫人になりきり、『嵐が丘』を読めばキャサリンになりきり、『戦争と平和』を読めばナターシャになりきり…。知的な想像の世界に浸ることが、私の最大の楽しみでした。
1970年代にパリへ渡ったとき、社交界で水を得た魚のように泳ぎ回れたのも、読書によって自分がどう振る舞うべきか頭にインプットされていたからだと思います。
小さいころから絵も得意でした。「この子は天才だ!」と言われ、自分でも「将来は画家になる」と思っていたくらいです。母が内職をしながら絵の先生をつけてくれましたが、当時の女流画家の作品には値が付かないことを知り、画家では母と弟を養えないと、諦めました。
かわりに、学歴も家柄も関係ない女優を目指そうと、六本木の東芸プロに入り、演技や歌、踊りの勉強をしながら、映画やテレビで小さい役をいただいていました。
日本随一の社交場で英語力を磨く
中学を出た私は、150倍の倍率だったといわれていた千代田生命に入社し、昼休みは喫茶店でアルバイト、夜は三田高校の定時制へ通い、女優も目指すという、一日が30時間くらいに感じられる密度の濃い生活を送っていました。
そのうちに、ある方のお世話になることになり、会社を辞め、茶道、生け花、日本舞踊など、自分を磨く日々が始まります。
その方が連れていってくださったのが、赤坂のコパカバーナという高級サパークラブです。日本随一の社交場として海外のVIPに知られており、お客さまの9割は外国人でした。頻繁に行くうちにマダムに気に入られ、アルバイトをするようになり、私の英語力は磨かれていきました。のちにスカルノ大統領と出会ったとき、英語を話せたことは、とても大きなプラスになりました。
私は大統領から選ばれたのだ
スカルノ大統領に見初められたのは19歳のときです。出会いから3カ月後、「2週間ほどインドネシアに遊びにいらっしゃいませんか?」とご招待を受けました。
ちょうどそのとき、アメリカ人の富豪2人からも求婚されていた私は、どうお返事すべきか迷いました。父はその数年前に亡くなっており、一刻も早く愛する母と弟を楽にしてあげるには、女優になる夢を捨てて、どちらかの方と結婚するのが最善ではないかと思いながらも悩んでいたのです。「そうだ、外国に行ったら、何かひらめきがあるかもしれないわ」。幼いころから世界に飛び出したい願望もあった私は、大統領のお誘いを受けることにしました。
ジャカルタで見た大統領はまさに神様のような存在であり、全国民から敬愛されている姿に心を打たれました。2週間が過ぎるころ、「私のインスピレーションとなってください。私の力の根源となり、人生の喜びとなってください」と言われ、「こんなに美しいプロポーズは100年生きても聞くことはできないだろう。私は選ばれたのだ。そして、選ばれた以上、全力でお尽くししよう」と思ったのです。
母と弟のことは心配でしたが、面倒をみてくださる方が日本にいたこともあり、そのままインドネシアに滞在することを決心しました。
最愛の母と弟を亡くしインドネシア国籍に
正式に結婚したものの、私は日本国籍のままでした。ところが、22歳のとき、母と弟を一度に亡くし、それをきっかけに日本への未練も断ち切った私は、全身全霊で大統領に尽くすため、インドネシア国籍を取得。ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノという名前を、大統領がつけてくださいました。
官邸には、大統領の身の回りのお世話をする人がたくさんいましたので、私は大統領のベストアシスタント、ベストセクレタリーとなって健康状態を絶えず見守り、大統領の目の届かない情報を伝え、大統領が万全の状態で国務をこなせるよう、バックアップしていました。
大統領から何か指図されたことはありませんが、唯一、私がズボンを履くことは許しませんでした。ただ、クーデターが起きた直後はズボンを履いてベッドに入り、危険に備えていました。夜中にゴーッという戦車の音が聞こえてくるのですが、それがいつ宮殿に侵入してくるか分かりません。護衛も信じられないので、何分で窓から飛び降り、広大な庭を突っ切って塀を乗り越えられるか、そばの川に飛び込んで忍者のように竹筒をくわえて何時間息ができるか、そんなことまでシミュレーションしていました。
27歳で娘とパリへ。社交界で人気者に
その後、日本で娘を出産しましたが、大統領が終身大統領の身分をはく奪され、インドネシアに戻れる情勢ではなくなりフランスへ亡命。1970年、大統領危篤の知らせを受け、死を覚悟して向かいましたが、結局、大統領と娘の対面はかないませんでした。
しかし、パリの社交界は、私をレッドカーペットで迎えてくれました。私には大統領夫人という地位、財力、若さ、美しさがあり、肌の美しさとただ一人の東洋人であったことで「東洋の真珠」と呼ばれて引っ張りだこでした。
スカルノの妻、カリナの母としての義務のため、79年にジャカルタに1人で戻った私は、娘を迎える準備をするため、馬車馬のように働きました。スハルト政権下、非常に苦しい戦いでしたが、ヨーロッパの5つの大きな会社のエージェントとして石油関係のビジネスを成功させ、メンテン地区という高級住宅地に自分の力で家を建てました。
テレビ番組の企画で楽しい挑戦を
2000年代からはニューヨークと日本を行き来するようになり、今では日本のテレビ番組に出演することも増えました。
みなさんは、私がイルカに乗ってサーフィンをしたり、4000メートルの上空からスカイダイビングをしたり、100メートルの崖からロープ1本で降りる様子を見て、さぞ驚かれたと思います。
しかし、他の方にできて私にできないことはありません。挑戦しないことより、挑戦する気持ちを失うほうが私にとっては怖いこと。つねに17、18歳の気持ちで何事にも興味と好奇心と探求心を持って臨んでいます。
若さを保つ秘訣は努力と感動
よく「若さを保つ秘訣は何ですか?」と聞かれますが、体型維持についてはきちんと努力しています。外食が多いので、家での食事は“まごわやさしい(豆・ごま・わかめ・野菜・魚・しいたけ・イモ)”を中心に、糖質はなるべくカットしています。コルセットでウエストをキュッとしめて、胸を高く。体を甘やかすニットは絶対に着ません。
あとは、長年、ダンスをしています。他にも、冬はスキー、夏はスキューバダイビング。この冬はロンドンから孫がくるので、一緒にスキーに行く予定です。
気持ちの上でも若さを保つことは大事。私はみなさんに、「一日に10回は感動してください」とお話ししています。きれいなお花を見る、好きな音楽を聴く、新聞でいい記事を読む、お友達と電話でおしゃべりし合う…どんなことでもいいのです。感動し心が高揚すると、リンパやホルモンの働きが活性化されて、肌にいい影響を与えてくれます。たくさんの悩みやつらい経験は引き出しの奥底にしまって、仕事も遊びも慈善活動も精力的に。私は、そうやって毎日を「生きて」います。
(東京都内にある事務所の一室にて取材)
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