18歳で摂食障害に… 「人生のどん底」からオリンピックへ
- 鈴木 明子さん/プロフィギュアスケーター
- 元オリンピック日本代表。1985年生まれ。愛知県豊橋市出身。6歳からスケートを始め、15歳で全日本選手権4位となり注目を集める。10代後半に摂食障害でリンクを離れるも2004年に復帰。10年バンクーバーオリンピック8位入賞、12年世界選手権銅メダル、14年ソチオリンピックでは個人戦8位入賞。14年、世界選手権を最後に現役引退。現在は、解説者、振付師として活動するほか講演会など幅広い分野で活躍中。
実家は割烹料理店
豊橋(愛知県)の生家は割烹料理店で一人っ子の私は父母と3人家族で育ちました。ありがたいことにいつもお客さんでにぎわう繁盛店で、父は料理人、母は女将(おかみ)として毎日忙しく働いていました。私が食事をするのはいつもお店。物心ついたときにはカウンターに座って夜ご飯を食べるのが普通でした。常連さんたちがいつも近くにいたので一人っ子の寂しさを感じたことはありませんでした。
父は、「ザ・職人」という感じの料理人。私が小さいころ、それこそ調理台からまだ頭が出ないくらいのときから、お客様には出せないお刺身の端っこをポンと口に入れてくれたのをよく覚えています。
父は料理に関してすごく研究熱心で、後に私がスケートで世界のいろいろな国に行くようになると、日本に戻ってから「何かおいしいものを食べた?」「どんな味付けがしてあった?」と、よく聞かれました。それを聞いて、やっぱり料理が好きなのだなと感じました。
私が食べて育ってきたものは、お出汁からすべて、家で作られたもの。舌で覚えた「家の味」があるということに、とても感謝しています。
私は、今でも父がつくる魚の煮付けがいちばん好きです。いつも家にはプロのご飯がありましたが、私もいつか手の込んだ料理を素早く作れる日がくるといいなと思います。
お店は、父が自分で起こしたのですが「跡は継がなくていいよ。お父さん1代で」と言われています。でも、もし私がお店を継ぐとなると板前さんを雇わなきゃいけなくなりますね。
今から包丁を研いで、やってみようかな。同じ刃物だから、いいかもしれませんね(笑)。
幅広い選択肢の中から好きなものを
母は娘の習い事に関してとても熱心でした。1歳1カ月から親子スイミングに行き始めたのを皮切りに、3歳からピアノ、その後に書道と絵画。ずっと習い事をやっていて、忙しい子どもでした。
母は娘にいろいろなことをやらせてその中から好きなものを見つければいいと思っていたのでしょう。フィギュアスケートを始めたのは6歳、小学校に入ってからでした。しつけに関しては母の役割で、厳しいというよりも「できて当たり前」というスタンスで娘と接していたように思います。
大好きなスケートひとつに絞って
スケートは、選手を目指すとかではなく、あくまでも習い事のひとつとして始めました。その後、数ある習い事の中からスケート一つに絞ったのは、ただただ好きだったから。とはいえ、スケートはお金がかかるので、経済的な理由もあったとは思います(笑)。
小さいころの自分のスケートの映像を見て驚くのは、名前を呼ばれてスタンバイしている雰囲気が今とほとんど変わっていないこと。「早くこのプログラムの世界に入って踊りたい!」と「鈴木明子」になりきっています。残念ながら技術は伴っていないのですが、子どもなりに精いっぱい「気持ち」で滑っているのがよく分かります。
もめ事がイヤで学級委員に
小学校時代は明るくて活発な子どもでした。自分で言うのも変ですが、優等生タイプだったと思います。クラス内にもめ事があるのがイヤで、「だったら私が仲裁しよう」と学級委員もやりました。争いごとがとても嫌いで、のちに「それが、あなたがチャンピオンになれない理由かも」と母に言われました(笑)。
4年生からは、放課後に毎日、電車で片道45分かかるスケートリンクへ通うようになったので、宿題は行き帰りの電車の中ですませていました。忙しい毎日でしたが、そのぶん、しなければいけないことはできるときにやる、というクセが身について、時間の使い方がうまくなったと思います。
それに、「スケートをやっているから勉強についていけない」と言われたらくやしいし、「いつ勉強してるの?」と言われるほうがカッコいいなと思い頑張っていました。
弱さもあって人間なんだな
大学入学直後の18歳のとき、摂食障害の一種を患って半年以上滑れない時期がありました。わずか3カ月で体重が16キロも減り、スケートどころではなくなりました。
からだは骨と皮だけになり、ようやく試合に復帰するまでに10カ月。その後も大学での3年間は、かなりの時間を地道な肉体改造に費やすことになりました。
そんな大変なさなかにあったときは「今が人生のどん底だ」と思っていました。でも、もしこの経験がなかったら、私は心が弱っている人の気持ちが分からなかったでしょう。
それまでの私は、弱い自分が大嫌いでした。でも、人間誰もが強いばかりではなくて、自分の中に弱い自分もいる。それがあって人間なのだと思えるようになりました。
仲間に恵まれた選手時代
2014年ソチオリンピック代表の3人(浅田真央さん、村上佳菜子さん)とはよく「姉妹のように仲がいいですね」と言われますが、本当に仲が良かったです。でも、仲良しこよしでなあなあになるのではなくて、「みんなで高め合いながら世界と戦っていこう!」というスタンスでした。その空気が心地よかったのだと思います。
フィギュアスケートは自分の理想とする演技ができてはじめて点数がつく競技。他人ではなく、自分自身との戦いです。私が長く現役を続けられたのは、フィギュアスケートが「よーいドン!」でタイムを競うとか、目の前の敵を倒すような競技ではなかったからだと思います。
だから、個人競技だけれど、一緒に戦った仲間にはすごく感謝しています。
競技の世界で学んだ強さと諦めない心
普段の私を知っている人からは、「よくあの厳しい競争世界にいられたわね。おまけにあんなに広い氷の上で、それもオリンピックという舞台で、たった一人で世界と勝負するなんて信じられない!」とよく言われます。
テレビでは「オリンピック2大会で連続入賞!」という成功の部分しか映らないので精神的にもとても強い、雲の上の人間のように見られがちです。
でも、私だって緊張しますし、試合に対する怖さもあります。それどころか、小さなことが気になる性分でいつも悩みを抱えてきました。「もうダメかもしれない」と何度思ったことか。いろいろな葛藤だってあります。
自分がもともと強い人間だとは思わないけれど、競技の世界で強さを学んだのだと思います。
また、小学生の頃から引退まで指導を受けた長久保裕コーチから「諦めなければできる」ことも身をもって学びました。
表現者でありたい
私は現役が長かったので(29歳で競技を引退)、年齢的にプロスケーターとしての活動は短くなるかなと思っていました。
でも今は、荒川静香さんもプロとして積極的に活動していらっしゃる。そういう先輩たちがプロの世界にたくさんいらっしゃるので、頼もしい限りです。私が小学生のときにはプロの世界は存在していませんでしたが、今は、滑れるうちはできるだけ長く氷の上にいたいと思っています。
もちろん、トレーニングを積んでいく中で「ここはちょっと弱くなってきたな」という部分も出てきます。年齢的にも、だんだん難しいジャンプは飛べなくなるかもしれません。
でも、私は「人生で経験したことすべてがスケートの表現になる」と思っていますし、スケートで伝えられることがまだまだあると思っています。「今の年齢だったらこれをやりたい」という希望や目標も、年々変わっていくと思います。いろいろなアイデアが生まれて、自分でも気づいていなかった部分が出てきたり、今までとは違うスケートができるかもしれないと思うとワクワクします。
競技者としては引退しましたが、まだ自分が滑ることがいちばん好き。もちろん限りはあると思いますが、できる限り表現者でありたいと思っています。
子どもたちがプロを目指せる環境に
フィギュアスケートは今、これだけ人気になりました。けれど、この人気が一過性のブームで終わるのではなくて、もっともっと多くの方に応援していただいて、職業としてプロを目指せる環境が整うくらい、社会にしっかり根付いてほしいです。
今の子どもたちはオリンピックに出ることがいちばんの目標で、そこを目指していると思います。でも、これからは、プロのフィギュアスケーターが子どもたちの「将来なりたい仕事」のひとつになるといいなと思っています。
スケートが好きな人を増やしたい
私はスケートから本当にいろいろなことを教わったので、今度はそれを子どもたちに伝えていきたいです。
もちろんスケートは子どもだけじゃなくて、大人の趣味としてもおすすめです。純粋に観戦しても楽しいですし、また、プロのアイスショーには競技とは違った魅力があります。
私が講演などでお話しすることで、「フィギュアスケートってこんな世界なんだ」と興味を持ってくれたらうれしいですし、自分のすべての活動が「スケートが好きな人」を増やすことにつながっていったらいいなと思っています。
(東京都中央区の一室にて取材)
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