生意気のレッテルを貼られた新人時代 『女囚さそり』で世界が一変
- 梶 芽衣子さん/女優・歌手
- 1947年生まれ。東京都出身。1965年スカウトにより日活映画『青春前期 青い果実』にて初主演。70年代には『野良猫ロック』『女囚さそり』『修羅雪姫』等のシリーズで人気を確立。テレビドラマは『鬼平犯科帳』(フジテレビ)など、300本以上に出演。歌手としては「怨み節」で日本有線放送大賞を受賞。今年3月にフルアルバム『追憶』をリリース、発売記念ライブを開催し好評を博す。また同時期に、自伝『真実』(文藝春秋)を刊行。
父から送られたアメリカのお菓子
生まれ育ちは、東京・神田。父は和食の料理人でした。かつて1ドルが360円だった時代にアメリカに招かれて渡り、テレビ局で料理を教える番組をしていました。
子どものころは父が送ってくるメイド・イン・アメリカのお菓子がうれしくて。当時日本では入手できないようなチョコ、フーセンガムも甘味がなくなるまでかみ続けたものです。
ペチコートのついたフランス人形のような洋服を送ってきたことも。さすがに着ていく場所がなかったですね。帰国した父は店をたたみ、食の経営コンサルタント業に。アメリカ帰りということで受けた同業からのねたみに嫌気がさしたのだと思います。
のちに父と同じ料理の道に進んだ弟から聞いた話ですが、ハワイのお店で「お父さんにお世話になった」と声をかけられたとか。そして父の教えた照り焼き、ウナギのタレがいまだに残っていると聞き、「すごいな」と感銘を受けました。
人見知りだった少女時代
私はといえばシャイで人見知り、初めての人が怖い子でした。今この話をすると、皆さん「全然信じられない!」と口をそろえますけれど。
お客さまにごあいさつもできない、こんな引っ込み思案じゃ困ると両親から勧められ、スポーツをすることに。中学・高校とバスケットボール部で活動しました。体育会系で過ごしたことで、私は大きく変わりました。友達を作る楽しさ、グループの一員となる喜びを味わったのです。
遊びに出かけるのはいつも銀座でした。大好物は銀座 木村屋總本店のあんぱん。味は当時と変わらず、今も大好きです。
モデルから映画の世界へ
そして高校生のとき。いつものように友達と銀座で買い物をしていた私は、モデルにスカウトされたのです。ジュニア雑誌やデパートのカタログのモデルで、学校を休まずに日曜だけやれるアルバイト感覚で。両親も「やってみたら」と勧めてくれました。きれいな流行の服を着られるモデルは楽しかったです。
そのうちテレビ番組などに出演するようになった私は、映画の道に進むことを決めました。そのとき17歳。将来なりたいものもなかった私の前に現れた、未知の世界。女優とは何か想像もつかなく、興味と好奇心だけで飛び込んだのです。
人生初の挫折を味わった
待っていたのは厳しい現場でした。誰も何も教えてくれない。どうしていいか分からない。
でもできないと言うと「できないなんて言うな!」と叱られる。「ギャラもらってるならプロだろ」と。
セリフをスタジオで録音するアフレコも初体験。当然私は失敗を繰り返しました。頭も真っ白でその場に座りこんだ私に、先輩たちが嘲笑を浴びせたのです。カーッとなった私は思わず「笑わないでください。あなたたちは初めからこれができたんですか!」と言い放った。たんかを切った新人ということで、以来「生意気」というレッテルが貼られることになりました。
厳しい仕打ちにあっていることは両親には言えませんでした。家のお風呂で湯船に潜って、思い切り泣いたものです。
人生初めての挫折を味わった、6年間の日活時代。今年6月に私の出演した映画を上映する映画祭があったのですが、この時代の作品もあえて見ていただきたく、加えていただきました。
『女囚さそり』の予期せぬ大ヒット
一日で世界が変わる。それを経験したのは1972年の主演映画『女囚さそり』のときでした。劇場公開されたある日のこと、宣伝担当が飛び込んできて「大変なことになっています!」と。全国の観客動員がすごいことになっていた。そして映画館の館主さんたちから「ありがとう!」と、涙ながらの感謝の電話が来たのです。
周りも一変しました。みんなが優しくなり、私が何を言っても、すべてOKになる。「大ヒットで人生が変わるとは、こういうことなんだ」と感じました。私はといえば、有頂天とは程遠い深い不安と孤独を味わっていました。
婚約者との別れ
そのころ私には婚約者がいました。女優を引退して結婚し、専業主婦になるつもりでいた。子どもがいてだんらんする普通の生活が望みでした。そこへ予期せぬ大ヒットで、生活が一変。婚約者とのすれ違いが生じて、いらだつ彼の暴力もエスカレートして…。耐えられず限界を感じた私は、別れる決断をしたのです。
別れの時、彼と約束したことがありました。「誰とも結婚するな。死ぬまで仕事は辞めるな」という彼の言葉にうなずいたのです。その約束をいままで貫いたのは、相手への“責任感”と“誠意”ですね。
ニューヨークで受けた衝撃
人生観を大きく変えたのは、30代半ばで旅したニューヨークでのできごと。ブロードウェイの劇場で昨日まで主役を演じていた女優さんが、花を売っているのを見たんです。彼らは次のオーディションまでの間、花売りやタクシー運転手、ウエーターをして生活していた。懸命に生きるその姿に衝撃を受けました。
「なんて自分は甘いんだろう」と痛感し、「いただいた仕事はなんでもやろう!」と固く心に決めたのです。そして帰国した私に舞い込んだドラマの役が、“パン屋住み込みの子持ちのおばちゃん”。それまでの私とは180度異なる役でした。この役を引き受けたことでさまざまな役にトライすることになり、のちの『鬼平犯科帳』出演につながった。あの旅がなければ、今の私はいなかったと思います。
鬼平・おまさ役との出会い
そして42歳となったある日。ドラマ『鬼平犯科帳』が中村吉右衛門さん主演で撮影に入ることを新聞で知り、この上ない経験ができるはずと、テレビ局に出演を熱望しました。そして密偵・おまさの役に出会ったのです。
原作の池波正太郎先生はお芝居に厳しい方と伺っていたので、撮影初日は緊張しました。その映像を見た池波先生が「おまさはあれでいいよ」と褒めたと聞いて、「よかった…!」と安堵しましたね。今でも先生のお墓には、毎年お参りさせていただいています。
「芽衣子さんにはロックが似合う」
それから28年もの間続いた『鬼平犯科帳』。おととしに終了したときは、何とも言えない虚しさ、寂しさにとらわれました。
そんなとき一人の青年が現れたのです。70年代にお世話になった音楽プロデューサーのお父さまの息子で、赤ちゃんのときから知っている鈴木慎一郎くんでした。
彼とはその昔、「鬼平」の撮影所にひと月連れていき、この世界の厳しさを教えた仲。ロックミュージシャンとなった彼は私に恩返ししたいと、私のイメージで作詞作曲した楽曲を持ってきたのです。「芽衣子さんにはロックが似合う」と。
歌ったこともないロック。しかも「今の年齢で歌えと言うの?」と驚いた。でも「やってやろうじゃない!」と、やる気になりました。やっぱり私って、ハングリーなことがないと闘志が湧かない性質なのね。
外国のファンから感動の手紙
昨年、70歳の誕生日の記念に、東京・青山でワンマンライブをやりました。鈴木くんのバンドとは1回リハーサルしただけで本番へ。満場のお客さんのすぐ前で歌うのは初体験。そのなかで全曲力強く歌い上げたところ、お客さまは大拍手で喜んでくれました。
今年3月の新宿でのライブでは、アンコールも含め14曲を歌い切りました。お客さまもノリノリで踊って。なんと外国からのお客さまもいらしたのですよ。そして私宛の手紙を置いて帰られた。イギリスの方は「働いた自分への褒美に、メイコ・カジのライブに来ました」、トルコの方は「僕は帰るけれども、遠い空からメイコ・カジを応援しているのを忘れずに」と。最高にうれしかったです。
歌う私をもっと知ってほしい
今春リリースしたアルバム『追憶』の録音では、ほとんどワンテイクでOKがでました。「怨み節」以外はシンくんの手によるもので、彼から見た、梶芽衣子の生きざまと心情を描いた歌。そのなかでも「ゆれる」という曲が特にお気に入りです。歌詞と歌が自分にマッチしていると思うのです。
NHKの番組で歌ったところ「かっこいい」と大反響をいただきました。私のことを「おまさ」役で初めて知った方からは「おまさって歌うの?」とも驚かれて。
もっともっと多くの方に知ってもらえるよう、今後も歌の活動をがんばっていきたいと思っています。
生涯貫く、3つのモットー
プロとして生き抜くのは決して甘くない世界。ここまで来られたのは社会に出たときに父から言われた、「最初に就いた仕事は貫け」という言葉が胸にあったからです。
「媚びない、めげない、くじけない」。これまでどんな厳しいときも、自ら作ったこのモットーは貫いてきました。媚びない=周りに甘えない。めげない=厳しい仕打ち、誹謗中傷を受けても決してめげない。くじけない=忍耐、がまんを通すこと。これらを貫いてきたから、いまの私がある。だから崩せない。この3つを生涯貫き通す。それが私の生きざまなんだと思います。
(東京都港区の国際文化会館にて取材)
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