「漫画家になりたい!」 「鉄腕アトム」が原点
- 里中 満智子さん/マンガ家
- 一般社団法人マンガジャパン代表。1948年大阪生まれ。1964年(高校2年生)に『ピアの肖像』で第1回講談社新人漫画賞受賞。『あした輝く』『姫が行く!』で講談社出版文化賞、『狩人の星座』で講談社漫画賞を受賞。代表作『アリエスの乙女たち』『天上の虹』をはじめ著作多数。公益社団法人日本漫画家協会理事長、NPO法人アジアMANGAサミット運営本部代表、デジタルマンガ協会会長、大阪芸術大学キャラクター造形学科学科長など多方面で活躍中。
本好きだった少女時代
両親と妹、4人家族で育ちました。子どものころからおませでしたね。 「理屈ばっかりこねて子どもらしくない」と母によく言われたのを覚えています。
小さいころから本さえ読んでいれば幸せでした。「子どもは外で遊びなさい」とよく言われましたが、毎日ずっと本を読んでいられたらなあ、と思っていました。
中学校に入ると図書室があって、そこにある本が全部読めるというのでうれしくて。入学して1年半ぐらいで小説の類は全部読んでしまって、その後はノンフィクションに手を出してドキュメンタリーの面白さに目覚めました。そのころは第2次世界大戦の記録や戦後の社会問題など、近い過去の記録をまとめたものが主でした。
科学の本も好きでした。生物とか宇宙の仕組みとか地球の歴史とか。「へぇー」と思って読んでいるだけなんですけれど、ワクワクしますよね。こういうことを研究している人がいる。しかも一生かけても答えが出ないかもしれないのに、ものすごい持続力だと思います。そういう物語を知ると、好奇心や探究心さえあれば、人生最後まで楽しく過ごせるのかなと思ったりします。
「鉄腕アトム」のように生きたい
小学校4、5年生になると、「自分の行動規範は鉄腕アトムにある」と思うようになりました。嫌なこと、面倒くさいこと、人がやりたがらないことをやらなければいけない時に、「アトムだったらどうする?」と考えました。特に感じたのがトイレ掃除の時です。誰も見ていないのだから、サボりたい。でも「アトムだったらサボらずやったはず」と、自分を律することができたのです。
それなのに親や学校の先生からは、「漫画なんか読んじゃダメだ」と。その理由が、「ロボット同士が戦って壊れるというのは残酷だ」とか、「ロボットが感情を持つなど科学的にありえない。子どもが間違った科学知識を信じたらどうするのだ」とか「子どもの脳が発達する時期には難しい文章を読んで脳を鍛えるべき。だから漫画を見せてはダメ」という理由。子ども心に非科学的でバカバカしく思いました。当時は理屈で大人に反論できませんでしたが、「これは戦わなきゃいけない」という気持ちになりました。
「鉄腕アトムを子どもたちから取り上げましょう」という大人の言葉は恐ろしかったですね。私は手塚治虫先生や石森章太郎先生、ちばてつや先生の大切な本を秘密の本棚に隠したり。それだけ私は漫画に感情移入でき、「アトムのように生きたい」と、本気で思えたのです。
相思相愛の両親
両親から受けた教育でいちばん大きいのは、夫婦の仲がすごく良かったことです。両親はお互いをいちばん大事にしていました。父も母一筋の人で、母はよく娘たちを呼んでこう話しました。
「赤の他人が夫婦になるというのは神秘的なことなのよ。でも、もともとは他人。だから、夫婦はいつもお互い一緒にいたいと思い続けないと一緒にいられないの。それに比べて親子であるという事実はたとえ宇宙が滅びても変わらない。だから、親子関係に努力するより夫婦関係にエネルギーを注ぐ方が大事」。また、「私とお父さんはこんなに愛し合っていて、あなたたちが入り込む隙はないんだからよく覚えておきなさい」とも。それは母の自慢だったのかもしれませんが、娘たちに「親を頼りにしないで自立して生きなさい」というメッセージでもあったと思います。
母は72歳で父に先立たれ、一時は元気がありませんでした。毎日毎日泣いていて、すごく落ち込んでいました。それで気を紛らわしてもらおうと当時大ブームだった韓流ドラマを勧めました。すると「ヨン様」ことペ・ヨンジュンさんにハマり、韓国語を習ったり現地へ行ったりして元気を取り戻していきました。その時、やはりドラマにはすごい力があるものだと改めて感じました。
母は今年92歳。大好きなヨン様は現在は俳優としては表舞台に立っていませんが、彼の子どもの成長を祈りながら元気に暮らしています。
こういう人たちの後輩になりたい!
中学生になって将来の進路を考えることになって、自分にとって何が大切か真剣に考えました。それで「漫画家になりたい」と言うと親も先生も大反対。「頭がおかしくなったのか?目を覚ませ」と言われました。
そんな状況の中、1年の時に担任だった女の先生だけは違いました。「里中さんが漫画家になりたいと言って先生方が困っているみたいだけど、漫画家ってどうやってなるの?」と聞かれ、「一生懸命描いて投稿するしかないんです。だから、高校生活を満喫したら東京へ行って、押し掛けでアシスタントになろうと思っています」と答えました。すると先生は「私は漫画の世界を知らないから何もアドバイスできなくてごめんなさい。でもあなたの夢が叶うといいわね」と言ってくださったのです。
先生の正直な言葉に、私はほっとしました。「アドバイスはできないけれど頑張って」と、大人が正直に言うことが、どれだけ子どもをほっとさせることか。「将来、何かでこの先生に喜んでもらえたらうれしいな」と、その時に思いました。先生と生徒といっても、10歳くらいしか年齢が違わないんですよね。その先生とは今でも連絡を取り合う関係が続いています。
自己流で描いた漫画の投稿は中学生の時から始めました。といっても、そのころはきちんとした窓口があるわけではありません。だから、いろいろな出版社に送るわけです。それで編集部の方からお返事が頂けたりすると、すごくうれしかったですね。
当時の私は、「漫画は世間から虐げられている。子どもの教育に悪いと言われて悪者扱いされている。でも、漫画界にはそんなことに負けず、すばらしい作品を描いて私たちを感動させてくれる先輩たちがいる」と思っていました。
当時漫画家の人たちが描いていた自画像を見ると、なぜか皆すごく貧しそうなのです(笑)。それで、「彼らはお金にならないのに描き続けている。なんてすばらしい人たちなんだろう!」と、ますます漫画家に憧れて、「こういう人たちの後輩になりたい!」と強く思いました。
独自の発展を遂げた日本の漫画
今、日本の若い人たちの作品を見ると、個性豊かな才能にあふれていると感じます。
日本の漫画家は絵以外の部分にも力を注ぎます。物語を自分の感性でシナリオに起こし、構図も考えますから、シナリオライターであり映像監督でもあります。日本のストーリー漫画は一人で作れる映画のように発展してきた歴史がありますが、これは世界を見渡しても独自のスタイルと言えます。
その出発点はやはり手塚治虫先生でした。絵もそうですが何より大きいのは手塚先生の世界観です。手塚先生がデビューした当時、子どもが読む漫画というのは、「教育的に正しくなければいけない。世の中には正義と悪があって正義は必ず勝つ。主人公は子どもらしく元気で素直で活躍するべき」であり、「そういうもの」だったのです。
ところが手塚先生の作品は違いました。世の中には理不尽なことがたくさんあって、主人公が必ず最後に勝つとは限りません。誰にも理解されず、ひっそりと死んでいく主人公もいます。だから、そういう作品は当時、邪道だったのですね。
でも、手塚先生の作品に感動した私や後の世代は手塚先生の作品に刺激を受け、「めでたしめでたし」のパターンを超え、深い意味を持たせた漫画を描くようになりました。それが今、日本が世界に誇る「マンガ」の文化であり歴史です。
私自身も作品を作る上で苦労するのは、ストーリーを作ってからセリフに起こすところですね。構成の部分にいちばん時間がかかります。日本の漫画は、絵と文章、構成、全部がひとつになって作品ですからね。
母がヨン様の韓流ドラマで元気になったように、私の活動で周りの人が元気になったり、満足してくれたらうれしいなと思いながらやってきました。
それは作品制作だけでなく、同業者や若い人たちが創作に励めるような環境づくりや海賊版対策など漫画をめぐる諸問題への取り組みも同じです。
社会活動といっても、たいしたことはできないのです。でも、やってもやってもきりがない。だからこそやりがいがあるのですね。
想像力を全開にして「最悪」を考えてみる
こうした活動や大学でも教えていることもあって、最近は漫画を描く時間が少なくなり、ちょっと焦ることもあります。
そんな時でも毎日を元気に過ごすコツは、「最悪」を考えることです。勇気を出して、ものすごく暗ーい、最悪なことを考えてみるのです。これは想像力の問題です。
どれだけ最悪な世界を自分の頭でつくり出せるか、そこが勝負です(笑)。脳をフル回転して考える最悪の世界に比べたら、現実って、たいていそれよりはマシです。だから、予想が最悪であればあるほど、「ああ良かった。今日も無事に終わった。私ってラッキー」と、感謝で一日を終えることができます。
それで翌朝、運よく目が覚めれば「ああ今日も生きている!」と、また感謝で一日を始めることができる。いろいろ不都合があってもなんとかなっているうちはラッキーです。最高のことも最悪なこともすべて想像力の中にあります。想像力に勝る現実はありません。
(都内の里中プロダクションにて取材)
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