祖父・宮崎滔天、父・龍介、母・白蓮 一族のスピリッツを受け継ぐ
- 宮崎 蕗苳さん/短歌結社「ことたま」・「滔天会」主宰
- 大正14年(1925)、白蓮・龍介の長女として生まれる。光塩高等女学校(現・光塩女子学院)卒業。昭和21年(1946)、智雄氏(後に早稲田大学教授、故人)と結婚、二児に恵まれる。短歌結社「ことたま」、「滔天会」を主宰。華道・山村御流の教授、名誉華務職を歴任。宮崎家にまつわる資料の保存・継承や、日中交流に尽くすとともに、講演などを通じて、ゆかりの人たちの事績について一般に伝えている。
一家の暮らしをペンで支えた母の姿
大正から昭和にかけて活躍した女流歌人・柳原白蓮。孫文を支持し、中国の辛亥革命に貢献した革命家・宮崎滔天(とうてん)の子に生まれ、編集者・弁護士・社会運動家でもあった宮崎龍介。私は、この2人の長女として、大正14年(1925)に生まれました。
母・白蓮と父・龍介については、数年前に放送されたNHKのドラマ『花子とアン』で知ったという方も多いでしょう。母は大正天皇の従妹であり、華族の身分でしたが、炭鉱王のもとに嫁いだのち、父と駆け落ちしたことで「白蓮事件」として世間から注目を集めたこともありました。
もっとも、私の目から見た白蓮はいつもおだやかで明るく、面倒見のいい普通の母親。物心ついたとき、覚えているのは懸命に一家の生活を支えていた母の姿です。
父が3年間結核でふせっていたため、母が和歌を教えたり、随筆や小説を書いたりしてお金に換え、父に代わって一家を養っていたのです。夜中に目を覚ますと、母はよくペンを持って机に向かっていました。
私や兄の香織にとっては、同じ屋根の下にいても父の部屋に入ることを許されない寂しさがありましたが、母は子どもたちに結核がうつるのをとても心配して、お茶碗もすべて別にして消毒するなど徹底していました。おかげで、私たちに感染が広がることもなかったのです。
その後、父が元気になり、弁護士の仕事を再開すると生活も少し楽になったのですが、母もすでに名前が売れていましたから、「これで仕事をやめます」というわけにもいかず、続けておりました。ただ、仕事をすることは、母の生きがいでもあったようですね。毎日忙しくて大変でも、楽しかったのだろうと思います。
ピンチになると別人のようだった母
母・白蓮の人柄を物語るエピソードがもう1つあります。
あれは昭和12年(1937)、日本と中国との和平工作に携わった父が、蒋介石との面会に向かう途中、憲兵隊に捕まったときのことです。
父は身柄を拘束され、私の家も家宅捜索を受けました。数人の憲兵たちがいきなり土足で家に上がり込み、兄や私が寝ている部屋までひっくり返して調べるのです。子どもからすれば、こんなに恐ろしいことはありません。体が震えました。
のちの新聞で、この件に関連して、母も憲兵の取り調べを受けたことを知りました。
しかし、母はこのときも気丈に対応します。子どもたちだけでもすぐにここから離れたほうがいいと、兄と私に爺やを付け、蓼科の山荘に避難させ、祖母と2人で家を守ったのです。
普段はおっとりしていますが、いざというときは生来の決断力を発揮し、きびきびと差配する別人のような強さを見せ、私たちを驚かせました。
多くの同居人がいたにぎやかな時代
さて、申し上げたように、父は弁護士の仕事のかたわら、社会運動にも参加しており、母も人のお世話が好きな人でしたから、家の中には私ども家族だけでなく、父を慕う若い人たちや、困った境遇にある華族の子女など、多いときは10人近くが同居していました。食事もいつも大勢で、それはにぎやかでしたよ。小さいころに親子水入らずで住んだ記憶はありませんが、それが普通だと思っていました。
それでも、家族そろって筆をとるようなゆっくりした時間もありました。私が10歳くらいのとき、母が短歌結社「ことたま」の活動を始めたのです。同人の歌誌『ことたま』が創刊され、母に「見たことや感じたことを、5・7・5・7・7に素直に当てはめればいいのよ」と教えられ、思い思いにペンを走らせました。幼かった私たち兄妹の歌もそこに載ったことがあります。歌作について母から特別な手ほどきを受けたことはありませんが、母の後ろ姿を見るうちに、自然と身についたところはあるかもしれません。
夏に親子4人で蓼科の家に出かけたこともあります。そこでみんなで川遊びをした楽しい思い出がありますね。
兄戦死の悲報を受けた母の悲しみ
しかし、戦争が激しくなり、早稲田大学の学生だった兄が学徒出陣し、手伝いもいなくなって、家の中は両親と私だけになりました。
みんな生きるために働かなくてはなりません。私も徴用され、勤労動員先の早稲田大学で事務の仕事をしていましたので、昼間、家には母しかおりません。空襲警報が鳴ると母の安否が気がかりで落ち着かず、家に飛んで帰ったこともあります。
しかし、一度は母と疎開を試みたのです。母の実家である柳原家に仕えていた方が会津地方にいらして、「よかったら私の家にいらっしゃい」というので2人で行ったのですが、あまりに雪深いところだったので、雪に慣れていない私たちは四苦八苦。とうとう、「お父さまを東京に置いて、2人で生き延びても仕方ない。やはり東京に帰りましょう」と、戻ってきてしまいました。
あのころは、自分の希望や夢を持って生きるというより、戦争に巻き込まれて過ごした記憶の方が強いですね。しかし、何とか3人とも無事で終戦を迎えられたと安堵していました。
そして、次々と復員してくるご近所の方を見かけるようになり、「うちも、もうすぐ帰ってくるわね」と、兄の帰りを心待ちにしていたのです。ところが、兄の死が突然、電報で知らされました。亡くなったのは終戦のわずか4日前だったそうです。
母は本当に嘆いていました。それこそ白髪が一気に増え、しばらく物も言えないで茫然(ぼうぜん)としていましたね。それがきっかけで、戦争で子どもを亡くした母親たちに呼びかけ、「悲母の会」を創立。反戦活動を始めることにもなりました。元気なうちは、この平和運動のために各地を講演して歩いておりました。
明治神宮での結婚式第1号
終戦の2年後、私は夫・智雄と結婚。兄が亡くなって子どもが私1人になり、宮崎の家を継ぐためには婿養子が必要でした。主人を紹介してくださったのは、母の和歌のお弟子さんです。主人はのちに早稲田大学の教授になりましたが、とてもおだやかな人で、父もとても信頼していましたね。宮崎の家でずっと一緒に暮らしました。
ところで、私たち夫婦は明治神宮での結婚式第1号なのです。明治神宮の宮司さまは華族だったのですが、終戦後、国からの補助がなくなり、このままでは立ち行かないと途方に暮れて、母に相談にいらっしゃいました。そのとき母が、「だったら結婚式をしたらどうですか?よければうちの娘の結婚式を最初に挙げてもいいですよ」と提案したのが、現在の明治神宮での結婚式の始まりだそうです。当時の写真は手元に残っていませんが、新聞記事になったのは覚えています。
その後、生まれた長男・黄石のことを、母は「香織の生まれ変わりだ」と言って、たいそうかわいがってくれました。その母が亡くなったのがちょうど黄石の大学入試の前日で、父と私たち夫婦は、「ここで騒いでは黄石が動揺してしまう」と、何事もなかったように試験に送り出し、それからあわただしく葬儀の準備をしたのでした。
子育てが一段落し、華道の教授へ
私は現在、華道・山村御流の教授をしておりますが、もとはお友達が奈良から東京に先生を呼ぶことになり、その教室に誘われたのがきっかけです。子どもたちが高等学校へ入り、子育てが一段落していたときなので楽しく続き、今では教える立場になったのです。
今も2週間に1度、日本橋まで教えに行っています。日本橋は生徒さんの数が多くて、1度に100人くらい。それを6人の先生で教えていますが、お花は楽しいというより、お教室があったり、年1回の華展があったりで、なかなかせわしないです(笑)。
両親の活動を受け継ぎ日中友好の懸け橋に
母が残した「ことたま」は、私がやれるところまで続けていきたいと思っています。歌誌『ことたま』は月刊で、紙面を穴埋めするために、私の歌も少し載せています。
また、父の遺志を継いで発足した「滔天会」も、日中友好のための役割があると思っています。
私にとって祖父・滔天は歴史上の人物ですが、5年に1度は辛亥革命の記念式典に国賓としてご招待を受け、「国父である孫文の友人・滔天の孫」として熱烈に歓迎していただいています。
私自身は劇的な人生を送ることもなく、平凡に生きてまいりましたが、自分たちの信念を貫いた両親の下に生まれたことで、その足跡をしるす役目を担い、請われれば、講演などもお引き受けしています。この先、私の息子がこの活動を引き継いでくれれば、これほど幸せなことはありません。
今は孫、ひ孫にも恵まれ、本当に幸せな日々を暮らしております。近所に住む孫が、毎日夕方になるとひ孫を連れて食事がてら会いにきて、にぎやかに過ごす時間が楽しくてなりません。祖父も両親も、そんな私たちをにこやかに見守ってくれているのではないでしょうか。
(東京都・目白のご自宅にて取材)
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