「もう二度と歌を離さない」思いをエネルギーに
- 岡村 孝子さん/シンガーソングライター
- 1962年愛知県岡崎市生まれ。82年、大学在学中に『待つわ』でデュオ「あみん」としてデビューを経て、85年にソロデビュー。大ヒット曲『夢をあきらめないで』は中学の音楽教科書にも採用される。2016年、愛知県より「LOVEあいちサポーターズあいち音楽大使」を委嘱、岡崎市民栄誉賞受賞。ソロデビュー30周年記念ベストアルバム『DO MY BESTⅡ』発売中。 【オフィシャルサイト】http://okamuratakako.com/
音楽教師かピアニストを目指した少女時代
出身は愛知県の岡崎市。田んぼとビニールハウスに囲まれた、四季の変化がはっきり分かる環境で両親と弟の4人家族で育ちました。子どものころは近所のお友達とよく外で遊んでいました。
音楽との出合いは保育園の時、音楽教室で始めたピアノでした。2年くらいした時に、先生から「お嬢さんはピアノが好きみたいなので、やらせてみてはどうか」というお話があって。それで両親にねだって家にピアノを買ってもらい、小学校に入ってからもレッスンを続けました。親としては将来のために買ってくれたと思うのですが、見事にその期待を裏切ってしまいました(笑)。
父はタクシー会社の経営と市会議員をずっとしていて、家族4人が一緒に食卓を囲むというのはめったにないくらい忙しい人でした。母も私が小学校に行くようになってからは、父の仕事を手伝ったりで忙しかったので、弟と2人でいることがわりと多かったですね。
シンガーソングライターになる!
その後もピアノを習ったり声楽の先生についたりしていたのですが、高校2年生の時、たまたまラジオから流れてきた、さだまさしさんの『雨やどり』という曲を聴いて「シンガーソングライター」という存在を初めて知りました。クラシックとはまったく違う詞や歌。「なんだこれは!」と思いましたね。それから自分で曲を作るようになって、作曲編曲教室にも通いました。当時は「シンガーソングライターになってプロデビューするんだ」という強い思いがあり、なぜか「絶対になれる」という、わけの分からない確信みたいなものがあって突き進んでいましたね。
通っていた高校は進学校で周りはほぼ100%が大学進学。先生との面談で「将来何になりたいんだ?」と聞かれ「シンガーソングライターです」と答えたら「バカ」と一蹴されました(笑)。でも、先生は6年程前に名古屋で行われたコンサートにご自分でチケットを購入して見に来てくださいました。そして、「あなたは意味のあること(仕事)をしている」と言ってくださったのが印象に残っています。
駆け抜けた1年半、そして目的を失って
大学1年の時にハコ(加藤晴子さん)と、あみんを結成、念願だったポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト)に応募しました。
一度目は中部北陸大会どまりの入賞でしたが、二度目のチャレンジとなる『待つわ』でグランプリを受賞、あみんとしてデビューしました。ちなみに『待つわ』は、予備校時代のボーイフレンドに向けて書いた曲で、「あみん」は、さだまさしさんの『パンプキン・パイとシナモン・ティー』という曲の詞にある「安眠(あみん)」という喫茶店の名前からいただきました。
シングル4枚、アルバム2枚(うち1枚はカヴァーアルバム)をリリース、その後は、大学に戻って就職するというハコの意向もあって、あみんは1年半で活動を終え、私も大学に戻りました。それからは「花嫁修行」と称して車の免許を取ったり、着付け教室に通ったり。地元のライブハウスで機会があったら歌おうと思って曲を作ったり。でも、「やっぱり何か違う…」と思いながら過ごしていました。
私は「このまま大学を卒業したら、きっとシンガーソングライターとしての活動をあきらめて地元に就職してしまうだろう」と思って4年の前期で大学を中退することにしました。そんな時にレコード会社の方から「もう一度やりませんか」というお話をいただいたのです。
実家に戻って両親も最初は喜んでいたようですが、目的を失って死んだ魚のような目をしていた娘を見るに見かねたのでしょうね。「好きなことをやらせたほうがいい」と、気持ちよく東京に送り出してくれました。
『待つわ』の呪縛
23歳の5月に上京、1985年にソロとしてデビューしたものの、あまりにも『待つわ』の存在が大きかった。『待つわ』の呪縛ですね(笑)。
そしてソロデビューから2年。当時「アルバムを3枚出せればアーティストとしてまず合格」と言われていました。私にとって正念場となる3枚目のアルバム『リベルテ』には、「夢を持って頑張っているけど、この先私はどうなっていくんだろう…」みたいな曲が並んでいました。「ちょっと暗いんじゃないの」と心配する意見もあったのですが、実際に出てみると、まずレコード会社の女性社員の方が「分かる!」と反応してくれて。リスナーの方からも、思いのほか「歌詞に励まされた」という反応を多く頂きました。私としては、リスナーを励ますというより、「迷ったりつまずいたりしているのは私だけじゃないんだ。みんな一緒なんだ。よかった」と、逆に励まされました。
同じ年の2月にリリースした『夢をあきらめないで』は応援歌と言われていますが、私にとっては失恋の歌。たまたま予備校のCMに使っていただいて水泳シーンといっしょに流れたのを見て、「失恋ソングがこんなにアクティブな映像に合うなんて」と、意外に思ったものです。
結婚・出産に伴う活動休止と復帰
1997年に結婚してすぐに子どもができたこともあって、シンガーソングライターとしての活動は休止。「こんなはずじゃなかった」という時期がかなり長く続きました。
娘の成長する姿から教わることはたくさんあって、自分の中に「母性」という引き出しが増えたとは思います。でも、音楽活動ができないとだんだん「私はいったい何をする人なんだろう?」という不安が大きくなって、どんどん自信を失っていく気がしました。
そんな状況のなか、「今、できることをすればいいよ」というディレクターのアドバイスもあって、2000年8月に4年半ぶりとなるアルバム『Reborn』をリリース、その2年後の2002年にライブ活動と、徐々に音楽活動を再開していきました。
復帰のコンサートツアーは仙台がスタートだったのですが、久しぶりにライブのステージに立った時は、幕が開いた瞬間に泣き出してしまいました。客席でお客さんが「うん、うん」ってうなずいている表情が目に入った瞬間、ぐっとこみあげてしまって…。今でもその時の情景は、鮮明に記憶に残っています。うれしかったですね。
結婚してしばらく音楽ができなくなったときに「もしかしたら私はこのまま音楽を止めてしまうのかな…」と思ったこともありました。でも、その復帰ステージで、「私はもう二度と歌を離さない」と強く思いました。そしてこの思いが、今の私のエネルギーになっていると思います。
あみん再始動
ハコとは、あみんが終わってからもずっとプライベートでお付き合いが続いていました。お茶を飲んだりご飯を食べたりしながら、ずっとつながっていました。私が妊娠した時も、病院を紹介してくれて一緒について来てくれたり、引っ越しを手伝ってもらったり。でも、音楽の話をしたことはありませんでした。
再始動のきっかけになったのは、2002年、あみんのデビュー20周年記念シングル『天晴(あっぱれ)な青空』にコーラスで参加してもらったことです。
いつものように電話で世間話をした後、電話を切る寸前に「もう一回ハモってくれる?」って聞いてみたら、彼女は「うん、いいよ」と言ってくれました。そして「10年前だったらお互いにこの話はできなかったかもしれないね。20年の時間を必要としたのかな」という話もしました。
そして同じ年の9月、コンサートツアー最終日に「一夜限りのあみん」を結成、アンコールで『待つわ』を歌いました。その時は「また何か一緒にできるといいね」と言って別れたのですが、その5年後の2007年、あみんデビュー25周年のタイミングで、再始動ということになりました。
あみんとして2枚目となるアルバムを作り、紅白歌合戦にも出場。2009年からは「宝くじまちの音楽会」というコンサートで活動しています。
紅白出場を喜んでくれた父
あみんで紅白歌合戦に出場した2007年は、ちょうど父が末期がんで闘病生活を送っていた時期でした。もし紅白出場が実現したら父の励みにもなるな、と思っていましたが結果的に出場がかなって、とても喜んでくれました。それまですごく忙しい父でしたが、病気になってからはひんぱんに孫の顔を見に東京の私の家に遊びに来てくれて、温泉旅行をしたり、浅草を一緒に歩いたり、思い出をたくさん作ることができました。
ここ10年ほどは、母を岡崎から借りてきて(笑)、いろいろ手伝ってもらいながら娘と3世代で暮らしています。母が元気なうちに、いろいろなところに行きたいと思って。最近は景色の良い所へよく3人で出かけて写真をインスタグラムにあげたりしています。
「生涯現役」を目指して
ふるさとに恩返しをしたいとの思いで、愛知の音楽大使をさせていただいたり、来年愛知県で行われる天皇陛下の公式行事「第70回全国植樹祭あいち2019」のイメージソングを県からの委託を受けて制作したりしました。5月に愛西(あいさい)市で開かれるプレイベントで初披露となります。
好きな言葉は?と聞かれると、最近は「生涯現役」と言っています。耳鼻科の先生に「あなたのノドは88歳まで大丈夫」とお墨付きをいただきました。「私のノドって意外と丈夫なのね!」と自信を持っています。
オリジナルアルバムのほうは、2013年に『NO RAIN,NO RAINBOW』を最後に出してから5、6年たってしまったので、今、制作中です。今年中から来年、無理のない時期に出せればいいなと思っています。
(東京都港区の国際文化会館にて取材)
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