迷わず現場に飛び込む。83歳、「人生YESの法則」
- 東海林 のり子さん/TVリポーター
- 1934年埼玉県生まれ。立教大学卒業後、57年ニッポン放送にアナウンサーとして入社。70年退社後フリーに。71年以降、『小川宏ショー』『3時のあなた』『おはよう!ナイスデイ』などのリポーター・ナレーターとして活躍。近年はテレビ・ラジオ出演の他、雑誌連載や講演活動などを行っている。「ロックの母(ロッキンママ)」の異名を持つ熱狂的バンドファンとしても知られる。94年度日本女性放送者懇談会賞受賞。
古き良き時代に育ったがまん強い楽天家
実家は埼玉県浦和市の岸町。比較的大きな家で、商店街で質屋を営んでいました。祖父の代はお侍で、明治の廃藩置県をきっかけに何か商売をしようということになり、質屋を始めたようです。
両親と祖父母とお手伝いさんが同居している家で、4人姉妹の末っ子。当時はかなり財力があったようで、私たち姉妹には1人ずつ「ねえや」がついて、面倒をみてくれました。
そのころわが家には書生さんがいて―とはいえ東京の大学に通っていた親戚の息子さんですが―私の担当だった「たけや」というねえやと、その書生さんが恋仲になり、たけやは私をおんぶしてデートしていました。小説のワンシーンのような、古き良き時代の光景です。
小さいころはよく、母に浴衣を着せてもらい、日傘を持って商店街の中を踊りながら歩いていました。周りのお店の人たちが「上手だね」と声をかけてくれて、それに気を良くしたのでしょう。家族や近所の人たちにかわいがって育ててもらったという意識は、今でもあります。
小学校6年生で終戦を迎えましたが、戦争中はやっぱり大変でした。疎開はしませんでしたが、庭に防空壕(ぼうくうごう)を掘り、B29が飛んでくるたびにその中へ逃げていました。
戦後はもちろん食糧難。お昼はサツマイモだけ、ということもよくありました。そんな時でも母は、「今日のお昼はスイートポテトよ」と、明るく言う人でした。「スイートポテト」なんてハイカラな言葉で言われると、同じサツマイモでもおいしそうに聞こえるなと思ったことを覚えています。
夜は電気がつけられないため真っ暗でしたが、あまり大変だと思っていませんでした。どのような状況にあっても、家族のありようでいかようにもなる、ということですね。
仕事と家庭の両立は二人三脚で
地元の高校卒業後、立教大学に進学しました。だんだん女子学生も増えてきたころで、キャンパスの花は私より1学年下の野際陽子さん。ESSという英語劇をやるサークルで一緒でしたが、野際さんは美人だからいつも主役でした。
大学卒業後はニッポン放送にラジオアナウンサーとして入社しました。2000人くらいの応募に対して、採用は男女各4人ずつ。試験は8次まであり、周りはアナウンス学院や放送関係の学校で勉強して「絶対にアナウンサーになる!」という人ばかりだったので、まさか自分が受かるとは思っていませんでした。
試験で大きな声でしゃべったことと、無欲が幸いだったのかもしれませんね(笑)。
大学4年生の時、同じクラブに入ってきた3つ年下の後輩が今の夫です。彼は私がアナウンサーになった時、「見学させてください」とニッポン放送までよく遊びに来ていました。お父さんの車に乗って来て「送っていきます!」と言うものだから、これは楽だなと。当時、好きなディレクターさんがいましたが、お付き合いするなら後輩の方が使いやすいと思いました(笑)。
仕事が終わってもすぐには帰れない時、なんとか彼に連絡をつけたいと思っても、今のように携帯電話がないので連絡のしようがない。そこで、自分がアナウンスする「時報」を使うことにしたのです。すぐに帰れるときは「まもなく6時になります」と続けて読む。帰れないときは「まもなく…6時になります」というように読み方を変えて、公共の電波を連絡に使わせていただいていました(笑)。
夫はバブル時代の営業マンでしたが、私が忙しい時にはお弁当を作ってくれたりして、家事や育児にはよく協力してくれました。
情報番組での経験が仕事の原点
ラジオからテレビに移ったのは37歳の時です。「情報番組のリポーターをやりませんか」と声をかけていただきました。
夕方4時からの生放送で、「スーパーのチラシのような情報を提供する」という、それまでにないスタイルの番組でした。若いリポーターにはできない、主婦目線が買われてのオファーだったと思います。テレビは未経験でしたが、直感で面白そうだと思ったので、「やります」と即答で受けました。
当時、週に1回、「産地直送バーゲン」という企画がありました。秋田のお米や千葉の落花生など、地方の特産品を百貨店に仲介してもらい、団地の前に並べて売って生放送するというコーナーです。さんまが3匹でいくらとか。すると団地の奥さんに、「ちょっと東海林さん、下の方もちゃんと新鮮なお魚入ってるんでしょうね?」って、背中をたたかれて言われるわけです。男性の視聴者よりも女の人は厳しいと、その時に学びました。
収録の合間には奥さんたちと立ち話をして、彼女たちが日ごろ何を考えているのか、何に興味を持っているのか、実際に自分の目で見て話を聞いて取材しました。この体験が私の原点となり、事件リポーターとしての「現場」につながっていったと思います。
「現場の東海林さん」誕生裏話
「以上、現場から東海林がお伝えしました」という私の代名詞になったフレーズがあります。
あれ実は、実際の事件リポートでは一度も言ったことがないのです。あれは皆さんの錯覚で、バラエティー番組で仕込んだ、架空の事件をリポートするという企画の時に言ったフレーズです。
「現場の東海林です。何か大変な事件がこの家で起こりました」で始まり、何か面白い事件があって、最後は大道具の障子の前に立って、「以上、現場から東海林がお伝えしました」で締める。すると同時に「終わり」と書かれた障子がパカッと閉まるという、「東海林」と「障子」をかけたダジャレなのですよ。でも、そちらの印象のほうが強かったのでしょう。
だからいまだに、現場に行かなくても「現場の東海林さん」(笑)。講演では司会の方に、「現場の東海林さーん」と呼ばれて「ハーイ」と出ていくこともあります。
健康の秘訣はビジュアル系バンドのライブ
50歳を過ぎてX(現X JAPAN)に巡り合ったことがきっかけで、ビジュアル系バンドのライブに行くようになりました。事件のリポーターをやりながら、もう一方で新しい世界が始まったのです。
ある人から「Xのトシ(TOSHI)がラジオ番組に出ませんか、と言っていますが行きますか?」と、声をかけられました。当時はビジュアル系バンドなんて全然知らなかったので、「え?Xって何?よく分からないけど、行ってみるわ」と出演させてもらったら、みんなとても礼儀正しい青年ですっかり意気投合。それから今まで、何十年もいろいろなバンドのライブに通ってきました。
でも、ずっとやってみたいと思いながらできずにいたことがあったのです。ビジュアル系バンドのライブには、最前列で髪を振り乱している女の子たちがいます。彼女たちはリズムに合わせて頭を激しく振る「ヘッドバンギング」、略して「ヘドバン」をやっているのです。それをいつも見ていて、「私も一度やってみたいなあ」と思っていました。それがついに昨年、実現したのです。
そのライブの日、私が最前列に進んでいくと、ヘドバンの女の子たちが「あ、東海林さんが来た」と、スッと場所を空けてくれて。私はショートで髪は振り乱せないので首だけ振って念願のヘドバンデビュー。「新しいことがひとつできた!」と思いましたね。バンドの子たちもびっくりよ。心拍数は相当上がったと思うけれど、ライブ会場にいると不思議と疲れないの。私にとって彼らのライブに行くことが、若さと健康の秘訣だと思います。
人生YESの法則
健康のことについて聞かれることも多いのですが、私はあまりお医者さんには行きません。自分の自然治癒力を信じているから。今、83歳なので人間ドックで詳しく調べたらどこか悪いに決まっているじゃないですか。だったら発見されない方がいい(笑)。私みたいなタイプの人間は、「ここにポリープがあります」なんて言われたら、いつもそこが気になって、ポリープがだんだん大きくなってしまう気がするの。「ああ、やっぱり痛いわ…」なんてね。
座右の銘は「人生に絶体絶命はない」。ピンチは乗り越えられるものだから、私に絶体絶命はないの。
皆さんも、「私は幸せの星のもとに生まれている」とか、何でもいいから自分を守る言葉を持つといいと思います。人間、お守りのような言葉をしっかり持っていると、「私は大丈夫」と思えます。
免疫学の先生に聞いたら、「大丈夫」と思うことは血流を良くするそうですよ。
今でも「東海林さん、これやってみませんか?」と言われたら、私、何にでも食いつきます(笑)。それが「人生YESの法則」。あまり考えすぎないで飛び込んだら、きっと、そこから何かが始まるのではないでしょうか。
こうしてお話ししていると体が温かくなります。しゃべることが私の仕事。その天職に巡り合えたことが、自分を支えていると思っています。
(横浜市港北区日吉のレストランにて取材)
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