「ハリー・ポッター」の翻訳家。魔法の世界は今なお続く
- 松岡 佑子さん/翻訳家・通訳者
- 1943年福島県出身。国際基督教大学卒業。モントレー国際大学院大学にて国際政治学修士号を取得。98年、亡き夫が残した静山社を継ぐ。99年、翻訳・出版した『ハリー・ポッターと賢者の石』は大ベストセラーとなり、全7巻の総部数2400万部を超える。ハリー・ポッターの翻訳者として講演も多く、エッセイストとしても活躍中。現在、スイス在住。2014年、フェニックス・ワイン・クラブを設立。 http://www.phoenix-wine-club.com
空いた時間は勉強。成績は常に一番
私は、世界の「ハリー・ポッター」ファンの皆さんと同じく、その魔法にかかっている一人ですが、幼いころ、自分が翻訳家になるとは夢にも思っていませんでした。いくつもの奇跡がジグソーパズルのように組み合わさり、「ハリー・ポッター」に出合ったのです。
小さいころの私は本の虫。両親とも教育者で共働き家庭だったため、誰もいない家に帰るとまず家の中を掃除し、習い事に行って、その後、本を読んで両親の帰りを待つのが日課でした。おとぎ話が好きだったのか、子どものころの夢は「お姫様になること」でした(笑)。
勉強に関しては、「ガリ勉タイプ」。まさにハリー・ポッターの親友ハーマイオニーのように、学校の成績は常に一番。はたから見ると大人しいのですが、負けず嫌いで、他の人に一番を取られるのが嫌でさらに勉強し、また一番になるという繰り返しでした。中学で英語が始まると、「初めての教科でつまずき、勉強に対する自信をなくしてはいけない」と心配した母が家庭教師をつけてくれ、同級生の女の子2人とともに、週に1、2度、私の家で英語の勉強をしました。
しかし、母の心配をよそに、ハーマイオニーですから、勉強はむしろ大好き。空いている時間は全部勉強しているような毎日で、「結果はかけた時間に比例する」という「松岡佑子の法則」により、英語だけでなく他の教科も含めて総合成績は高校までずっと一番だったと記憶しています。
高校でもガリ勉。唯一の失敗は“遅刻”
高校受験時は食事以外、勉強部屋から一歩も出ない徹底ぶりで、宮城県第一女子高等学校に入学。入試の成績もトップだったようで、新入生総代を務めました。
高校に入っても、勉強以外のことはほとんどしませんでした。学校に男子がいないことで、異性に興味を持ちそうな年齢のときに何も考えなかったのは、勉強に関してはよかったかもしれませんね(笑)。
学生時代に勉強以外で唯一やったことといえば“遅刻”でしょうか。朝、ぎりぎりまで勉強していると、家を出る時間もぎりぎりになり、ちょうど電車が混む時間で車内はぎゅうぎゅう。その電車に乗るのが嫌で、何度もホームルームの時間に遅れました。遅刻の回数が多いので先生に呼び出されたものの、「でも、成績もいいし、授業に遅れるわけではないから、まあいいでしょう」と言われておしまいでした。
英語の原書を夢中で読み始めたのはこのころからです。授業で読んだ『若草物語』を皮切りに、辞書を引き引き週に1冊の勢いで読んでいました。
大学受験では、女性の最高学府を目指したいという思いと、母の希望もあり、お茶の水女子大学を目指しましたが、将来は英語で身を立てたいという思いが募り、考えた末にICU(国際基督教大学)を目標に定めました。
親孝行のつもりで両方受験し、お茶の水女子大学の合格通知を母に渡したとき、両親は「なんでキリストの学校に行くんだ?」と嘆きましたが、自分の答えはすでに出ていたのです。
夫との出会い。紆余曲折の末、通訳に
ICUはユニークな大学で、キャンパス内にはICU牧場があり、そこの牛から搾ったICU牛乳という非常に脂肪分の高い牛乳が学食で出されていました。教師の半分は外国人、外国人留学生が全体の1割いましたから、どこか日本離れした雰囲気もありました。
私の秘かな楽しみは、その牧場のそばにある大学の郵便局長さんの宿舎を毎週土曜日に訪ね、クリスチャンの学生たちと賛美歌を歌い、局長さんの奥さんがICU牛乳でつくってくれたシュークリームを食べること。
しかし、それ以外はやはり勉強漬けの日々でした。ICUは全寮制の大学で、寮生活はわりに自由でしたが、私の毎日は規則正しく、食事はほぼ学食、夜は寮の部屋にこもって勉強。そのうち家庭教師のアルバイトを始めましたが、寄り道もしませんでした。
将来夫となる人に出会ったのは、そんな大学1年生の時の夏休みです。キリスト教について学ぶ修養会というICUのキャンプに参加し、そこで4つ年上の松岡幸雄と同じグループになったのです。
「なんてクソ真面目な人だろう」というのが第一印象で、向こうも私のことを「まだ小娘のくせに生意気な口をきくやつだ」と思ったらしい。その後、お互いのアルバイトの帰りに電車の中で偶然再会し、話しかけてきたのがきっかけで交際が始まりました。
彼は哲学青年であり、読書家で、思想家。授業にはほとんど出席せず、独学、思索しながら留年を重ねていた人でした。私は大学に入ったばかりのころは、漠然と英語を生かして国際的な仕事がしたいと考えていましたが、彼の影響を受けたのか、3年生のとき、語学から歴史に専攻を変え、大学院へ行ってもっと勉強したいと思うようになりました。
ところが、1つの転機がありました。4年生の春、マレーシアの大学に1年間留学できるチャンスを得たものの、予期せぬ出来事が重なって留学の話が立ち消えに。大学院に進む準備も出遅れ、就職を余儀なくされました。
結婚しようと思っている相手がなかなか就職しそうにないことも手伝って、「ならば私が稼ぐしかない」と大学院をあきらめ、学生課に貼ってあった「常勤通訳求む」という募集を見て就職試験を受けることにしたのです。
同時通訳者として世界を舞台に働く
私が就職したのは、通産省の外郭団体(財団法人)で、開発途上国の技術研修生を受け入れ、日本語の勉強をしてもらって各企業に送り出す機関でした。日本の文化、歴史、社会などの講義を通訳するのが私の役目です。
その後、就職2年目に結婚。定職に就かない男との結婚を親が許すわけはなく、父は猛反対。母も「ずっと優等生だったあなたが、なぜあんな人と…」と不満の声をあげていましたが、こちらも折れませんでした。
通訳の仕事も受験勉強並みに勉強し、少し自信が持てるようになったころ、持ち前のチャレンジ精神がうずき始め、もう一段高みを目指すため日米会話学院の同時通訳夜間コースに通い始めることに。ここで1年間のクラスを終えたとき、講師の1人から「通訳として1カ月間、アメリカに行ってみないか?」というお話を頂きました。
それまで一度も海外に出たことがなかった私にとって、このお誘いはこの上なく魅力的でした。しかし1カ月もの休みが取れるかどうか…上司に相談してみると、「あなたはずっと中にいる人じゃない。これを機会に外の世界に羽ばたいてみてはどうか。仕事は保証するから半常勤の形で外の仕事を広げてみては?」と思いがけないお返事を頂きました。
この言葉をきっかけに、仕事場を世界へと広げていきました。3年後には完全にフリーになり、クライアントも増え、海外に出る機会も多くなりました。ここでもハーマイオニーぶりを発揮し、いつも膨大な資料を抱え、タクシーや飛行機の中でもかぶりつくように勉強していました。
亡き夫の志を継ぎ出版社の社長に
私がフリーの同時通訳者として忙しい毎日を送っていた1979年、夫は「ジェクリ社(後の静山社)」という出版社を立ち上げました。「出版は社会の警鐘たるべし」という考えの下、骨太な社会派の民衆史を多く取り上げ、売れなくても誇れる本を…という仕事ぶりでした。3000部刷って2000部戻ってくるという具合で資金繰りは非常に苦しかったけれど、がんを患い、58歳で亡くなる最後まで信念を曲げることはありませんでした。また、出版を通してALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病に出合い、弱い立場の人を放っておけないと、患者さんや遺族、医師と協力して日本ALS協会を設立。立派な人生だったと思います。
遺言は、「静山社もALS協会も何もしなくていい。お前は通訳として自由に生きろ」でした。でも、夫が命をかけて続けてきた会社を潰すことは、私にはできませんでした。
ハリー・ポッターは天からの贈り物
静山社を引き継いだものの、出版のいろはも知らない私は、通訳の仕事を続けながら「どのような本を出すべきか」、暗中模索の日々を送っていました。そんな迷いを吹き飛ばしてくれたのが、「ハリー・ポッター」です。
ロンドンに住む昔からの友人、ダンとアリソン夫妻のもとを訪れた際、「語学力を生かして、翻訳本を出したいと思っているんだけど、何か面白い本はないかしら?」とたずねた私に、ダンが「それならこの本だ!子どものいるイギリス人で、これを読んでいない親はいないって言われている。この本の翻訳権が取れたら、出版社のビルが建つよ!」そう言って、本を貸してくれたのです。
その夜、私は「ハリー・ポッター」に魔法をかけられました。そして、後に世界で一番有名な児童書となった「ハリー・ポッター」の翻訳権を日本の小さな出版社が手に入れることとなったのです。著者J・K・ローリングの代理人から承諾の返事をもらったとき、いろいろな想いが込み上げ、涙が止まりませんでした。この奇跡は、きっと天に召された夫からの贈り物だったと思います。
「ハリー・ポッター」の翻訳者となってよかったことはたくさんありますが、ひとつは、夫・松岡幸雄という人間が一生をかけた仕事を引き継ぎ、出版社を続けることができたこと。また、本を読まない子どもたちに本を読む楽しさを伝えられたことで、社会にも貢献できたことではないかと思います。
何歳になっても夢は見られる
現在はオーストラリア人のロバート(ボブ)・ハリスという新しいパートナーと出会い、自宅のあるスイスと日本と彼の家族が住むオーストラリアをぐるぐる回る旅をしています。ワイン好きが高じて、3年前から仏・ブルゴーニュ地方のワインを扱うワインクラブも始めました。
自分のやりたいことはだいたい叶って、小さいころの夢だったお姫様には、もうなれたと思います。この先も翻訳したい本があり、飲みたいワインがある。まだまだ夢いっぱいです。これからもがんばって良書を見つけ、たくさん訳して、多くの子どもたち、大人たちを楽しませたいと思います。
(東京都内の静山社にて取材)
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