紛争が激化する第二の祖国シリア 傷付いた女性たちを支援
- 山崎 やよいさん/考古学者
- 1958年京都府生まれ。89年、講談社の野間アジア・アフリカ奨学金を得てシリアに渡航。その後、アレッポをベースに発掘調査、大学講師として働く。その他、JICA(国際協力機構)の専門家として博物館教育活動にも関与。また、テレビ取材のコーディネートやアラビア語通訳者として活躍。『山崎やよいblog』で、シリアの今を発信中。シリア紛争で生活基盤を失った女性たちに「針と糸」で収入の道を開いてほしいと願いを込めたプロジェクト「イブラ・ワ・ハイト」発起人。
実家は天橋立の旅館3人きょうだいの末っ子
実家は考古学とは縁もゆかりもない旅館です。景勝・天橋立のすぐそばで、3人きょうだいの末っ子として生まれました。今は兄が旅館を継いでいます。
幼いころは、ひ弱なほうだったと思います。さらに兄と10歳、姉とは7歳離れていたせいか、最初の子どものようにちやほやされてすっかり甘えん坊に。兄とけんかすれば姉のところへ行き、姉とけんかすれば祖母のところへ行き、逃げ込める場所がたくさんありました。
運動も苦手でしたが、不思議とサバイバルものは好きで、SFの父と呼ばれたジュール・ヴェルヌの『地底旅行』『海底二万里』などを好んで読んでいました。
小学生のときに観たツタンカーメンが原点
小学校低学年のとき、京都に「ツタンカーメン展」がきました。両親が連れて行ってくれたのですが、それが考古学者を目指したきっかけかもしれません。
背が低いので、黄金のマスクなどの遺物を下から見上げると、キラキラしてきれいなのに破れていたりするものもある。そこに好奇心をそそられながらも怖かった記憶があります。古代というものを理解できるはずもないのだけれども、子ども心に畏怖の念に近いものを感じたのだと思います。
実は今もツタンカーメンにかかわる仕事をしています。エジプトで新しい博物館をつくっていて、そこで働く学芸員さんの人材育成を依頼されたのです。50年の時を経て、あのときのツタンカーメンに呼ばれたのかしら…と思うと不思議な気持ちです(笑)。
考古学より言語学にのめり込んだ大学時代
中学・高校で詳しい歴史を習い、古代オリエントのメソポタミア文明に興味を持つようになりました。NHKの『未来への遺産』という番組が衝撃的で、そのときはまだ、乙女チックにスケール感の大きな古代文明に憧れる少女でしたが、この番組も一つのきっかけになり「大学に入ったら絶対に考古学を勉強しよう」と心に決めました。
入学したのは、広島大学。考古学研究室で基礎的なことを学びました。しかし、残念ながら当時は日本の考古学が中心で、海外調査に行くことは叶いませんでした。研究室はイラン調査を何度か行っていましたが、イスラム革命が起こり、中断されてしまいました。
そんな折、考古学研究室の向かいにある言語学研究室にシュメール語(くさび形文字)の専門家の先生がいらっしゃることが分かり、ダメ元で聴講をお願いしました。すると、「単位にはならないが、やる気があるなら時間外に教えてあげよう」と、意外にも快くご了解くださり、数人の学生で自分たちの小さな研究会をつくりました。そのころは考古学より言語学にのめり込みました。
初のイラク発掘調査。魅力にとりつかれた
その先生の関係で、大学院生のとき、ついにイラクの発掘調査に連れて行っていただけることになったのです。
着いたのは夜でしたが、夢にまで見たチグリス川を渡ったときはものすごく興奮しました。
数日後には、ユーフラテス川沿いの遺跡に向かい、褐色の大地を流れる豊かな川の周辺に育つ青々とした樹木を見て「乾いた土地でも、川がこんなふうに大地を潤わせるんだ」と実感。
現地のワーカーとの付き合いも面白く、そこでの3カ月間は、発掘しなくてもずっとここにいたいぐらい感激の連続でした。
帰国後も、とりつかれたように「また絶対行かなきゃ」と思い続け、機会を狙っていました。でも、いろいろ問題があったのです。
愛娘を日本に残し、単身シリアへ
同じく考古学者だった男性と学生結婚していた私は、その後、娘を出産。そのころ、講談社の野間アジア・アフリカ奨学金に応募し、2年間留学できるチャンスをもらいました。希望したのは当然イラク。しかし当時はイラン・イラク戦争の最中だったので、渡航先はシリアに変更せざるを得ませんでした。
当初、現代のシリアについての知識はほとんどありませんでした。でも、この機会を逃したら二度と行けないと思い込み、「娘も連れてどうしても行きたい」と私。ところが、さまざまな問題が持ち上がったため一人で渡航することに。派遣期間の半分が過ぎたころ、娘も同行することができました。
結局、自分の夢を無理やり実行しました。行かない選択もあったでしょう。ですが、あのとき一歩を踏み出さなかったら、今の人生はなかった。とてつもない後悔をしたと思います。
遺跡が子どもの遊び場
遺跡はユーフラテス川の岸にあるテル・アバル村の村はずれ。朝4時半に起き、宿舎にしている泥レンガの家からガタゴト道を車で10分くらいの発掘現場に毎日通いました。
当時3歳だった娘も一緒です。でも、朝が早いので30分もすると眠くなってしまいます。すると彼女は、遺跡の壁際にできる日陰の涼しい場所に行って朝寝を始め、そこで日が当たるまで寝るのです。そして、暑くなると起き出して、裸足で近所の子どもたちとどこかに遊びに行く…。
また、遺跡では、風が吹いて砂だらけになったパンもはたいてそのまま食べていました。そういう環境で、娘はたくましく、健康に育ちました(笑)。
近所の人たちもとても親切で、毎朝、発掘隊の私たちを朝食に招いてくれる。それは5年間の調査期間中ずっとでした。娘の姿が見えなくても、「今はあそこにいるよ」と教えてくれます。そんな村人たちに見守られていたおかげで、私も安心して仕事に打ち込むことができました。
シリア人は笑顔でもてなし上手
シリア人は本当に温かくて、優しくて、おおらか。アラブ人男性というと、ひげを蓄えて怖い印象があるかもしれませんが、笑顔もチャーミングです。中でも最大の特徴は、おもてなし上手な国民性だと思います。
シリアに着いた日、ダマスカスからアレッポに移動するバスの中で片言の英語で話しかけてきた婦人が、途中休憩で外に出たときにサンドイッチとコーラをくれたのが最初のおもてなし。「はい、どうぞ」「え?じゃあ、お金を払います」「とんでもない」と、そんな感じです。バスを降りてからは、別の男性が、道が分からない私のスーツケースを持って、ホテルまで案内してくれました。ここでもチップが必要なのかとお金を出すと、「ノー」。
翌日、市内を散策中にコーラを買おうと注文すると「どこからきたの?」「日本です」「ウェルカム!」と言って、コーラをただでくれるのです。このおもてなしはなんだろう?と初めのうちは訝しくも思ったのですが、生活するうちに、シリア人なら誰もが持っている異邦人への親切心だと分かりました。
私の受け入れ先であるアレッポ博物館の学芸員のハミードさん(後の主人)は、いきなり家族と住む家に招いてくれ、手厚いもてなしをしてくれました。ご飯に呼ばれるうちにお互い好意を持つようになり、1997年に再婚。シリアは私の第二の祖国になったのです。
イスラム教に対しても違和感はありませんでした。彼は、ムスリムといってもあまり戒律を守りませんでした。しかし、コーランを字面ではなく、本当の意味で理解して立ち振る舞い、モスクの荘厳さと、そこに集まる人々を敬愛する、リベラルな人でした。だから私もイスラム教に偏見を持たず、今もいられるのだと思います。
夫の逮捕、死、そして紛争が始まった
2003年、夫が考古行政への意見を新聞に載せ、逮捕されました。遺跡調査から家に戻ると家の前に秘密警察が待っていて、連行されたのです。アサド政権下では自由な意見が言えませんでしたが、息子の代になり、新風が吹いたような錯覚に陥った時期があったのです。夫の逮捕は、地元の役人が口封じのために拘束したというのが実情のようでした。私のいた時代、シリアは平和な国でしたが、平和と自由は両立しないという側面は変わらなかったのです。
その後も嫌がらせを受け、さまざまな不遇を味わいました。
そのころから、私は収入源を求めて日本とシリアを行き来することにしました。日本とシリアをつなぐ事業ができないかと模索していたのです。そんな2012年のある日、夫が心不全で倒れたという知らせを受け、駆け付けた数日後に亡くなってしまいました。
時を同じくしてシリア紛争が激化し、シリアに帰ることがままならなくなりました。以来、東京で一人暮らしをしています。シリアには家財道具も残したまま。本当は、夫が残した書物を整理したいのですが、今はそれも難しい状況です。
シリア刺しゅうを女性たちの収入源に
現在は、冒頭でお話したエジプトの博物館の人材育成のほか、アラビア語の通訳や翻訳、コーディネーターとしてヨルダンをはじめとした周辺国に出張しています。
そんな中、2013年に立ち上げたのが「イブラ・ワ・ハイト」(アラビア語で「針と糸」の意)です。長引く紛争によって生活基盤を失ったシリア女性たちが、伝統的なシリア刺しゅうで生計を立てられるよう、日本人の友人と協力して活動しています。支援ではなく、共同作業。できる限り彼女たちの感性を大事にして、送ってきてくれた作品にフィードバックを加えながら、若干のアレンジを加え販路を開拓するのが私たちの役目。
つくり手は、シリアから避難し、トルコに出ている人たちがメインです。彼女たちは当初「時間を埋めたい」と言っていました。ある女性は紛争でご主人を亡くし、息子は足を1本失い、もう1本の足も手術しないといけない。それでも、手を動かして刺しゅうをつくっている時間はそのことを忘れられるし、収入も得られるからと。
そこで分かったのは、こんな状況にあっても女性は強いということ。働き盛りの男性が従来の仕事を失い、生活への意欲をなくす中、野良仕事から皿洗いまで何でもこなす。当初は悲壮は否めませんでしたが、今はシリア人らしい温かさ、ゆるさ、笑顔が戻ってきたような気がします。
「イブラ・ワ・ハイト」の作品は日本では岡山のオリエント美術館や大阪の民族学博物館のミュージアムショップに常設していただいているほか、全国各地のイベントでシリア刺しゅうが展示・販売されているので、機会があればぜひ見ていただきたいですね。
(東京・銀座にて取材)
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