好奇心が若さの秘訣。人生ときめきが大事なんです
- 三沢 あけみさん/歌手・女優
- 1945年、長野県伊那市生まれ。14歳で東映ニューフェイスで映画界入り。63年、歌手としてビクターから『ふられ上手にほれ上手』でデビュー。同年『島のブルース』が大ヒット。その年からNHK『紅白歌合戦』に5回出場。『日本レコード大賞』では新人賞、優秀アルバム賞、功労賞、歌唱賞受賞。女優としても映画、テレビ、舞台で活躍する。『花咲く季節(ころ)に/高遠ざくら』が発売中。BS12『三沢あけみのお茶会・歌謡界』(毎週水曜午前5時30分〜6時)に司会役で出演中。高遠さくらホテル1階ロビーにて展示『三沢あけみのあゆみ』(無料)が公開中(12月31日まで)。
一男三女の末っ子
幼いころから歌手に憧れ14歳で映画界に入り、16歳から歌手生活がスタート。早いもので芸能界デビューから55年以上の月日がたってしまいました。でも、何よりも歌が好きで、目の前にいる人に楽しんでもらいたいという気持ちは小さいころから変わっていないような気がします。
物心ついたときから、母の着物を着て日傘を持って踊ってみせたり、玄関前にミカン箱を置き、ステージに見立てて、通りすがりの人に覚えた歌を聴かせたりするようなお茶目な女の子でした。
私にはきょうだいがいるのですが、すぐ上の姉との年の差がひと回りくらいあるのです。長兄とは22歳も違います。だからか、妹というよりペット的な存在で、芸のまねごとをするとみんなが喜んでくれるんですね。私もそんな家族の注目を集めるのが楽しかった。そのころから歌手には憧れていました。
ただ父は銀行マンで、古くて固い考え方の人でしたから、サラリーマンの娘が芸能界なんてとんでもないと思っていたようです。一方の母は芸事が大好き。「この子は歌手に向いているかもしれない」と、私を児童劇団に通わせたり、父に内緒で高い月謝を払い、歌のレッスンを受けさせたり。それがもとで家計が苦しくなり、家族は家の2階に移り、1階を人に貸していた時期もありました。
「リボンちゃん」と呼ばれた小学校時代
小学生のときの私のトレードマークは「リボン」。特に真っ白いリボンが大好きで、幅が10センチ以上あるような大きなリボンを頭につけて毎日学校に通っていました。それでついたあだ名が「リボンちゃん」。
その学校は幼稚園から高校までエスカレーター式だったのですが、高校生のお姉さんたちから、「かわいいアイドルちゃん!」とチヤホヤされ、家に招かれてケーキをごちそうになったり、ぬいぐるみなどのプレゼントをもらったり。すっかり芸能人気分の私は、家に帰るなり「絶好調!」と叫んで得意満面でした。
でも、すんなり芸能界に入れたわけではありません。歌手に憧れて勉強はしていましたが、まだ子どもでしたから、どのレコード会社からも「早すぎる」と断られました。それで、歌手は断念して、学校の勉強にいそしもうと気持ちを切り替えていました。
年をいつわり受験した東映ニューフェイス
そんな折、親戚の叔母が「東映のニューフェイスの募集があるよ」と教えてくれたのです。そのときは女優になりたいなんて夢にも思っていませんでした。ただ、ちょうど夏休みだったこともあり、撮影所ってどんなところかしら?という好奇心も手伝って、14歳なのに応募用紙には16歳と書いて試験に臨みました。応募資格は16歳以上でしたが、母が「お化粧すれば大丈夫よ」と背中を押してくれました。
私は姉たちの洋服、イヤリング、ハイヒールを借り、一生懸命背伸びをして、きれいなお姉さんたちに交じってがんばりました。
そうしたら、合格通知が来ちゃったのです。最終面接ではついに年齢もバレてしまいました。ところが、普通ならここで万事休すですが、「特例として、学校の許可があれば採用しよう」と言ってくれたのです。
学校側に説明したところ、園長先生も「登志子ちゃん(私の本名)は成績もいいし、出席日数さえ守ればいいですよ」と認めてくださり、晴れて東映の女優さんの仲間入りをすることになりました。
初恋のお相手は東映の新進スター
当時の東映は高倉健さん、里見浩太朗さん、大川橋蔵さん、梅宮辰夫さん、佐久間良子さんなど人気スターばかり。私なんて出る幕もありません。ですが中途半端な年齢がちょうどよかったのか、運よく北大路欣也さん主演のテレビドラマ『笛吹童子』の胡蝶尼というお姫様役に決まりました。
当時は夜7時からの生放送。北大路欣也さんも学生だったので、お互いに学校が終わってからリハーサルをして、本番に備えました。
スタジオにはいくつものセットが組まれていて、1つのシーンが終わると、音がしないように次のセットに役者が移動する時代です。生放送ですから、たった1人がセットを間違えたり、台詞を間違えたりすればドラマがめちゃくちゃになってしまいます。それはすごい緊張感でした。今でもよくやったなあと思います。
そのドラマでは淡い初恋も経験。実は3つ年上で当時17歳だった北大路さんに一目ぼれしてしまったのです。残念ながら片思いのまま終わってしまいましたが、このことは一度も隠したことはありませんから、ご本人もきっと苦笑なさっているに違いありません(笑)。
「女優より向いている」16歳で歌手に転向
今も映画の初日は主要キャストの舞台あいさつが行われますが、当時はスター俳優さんたちが登壇する前、私のような新人が前座として1曲歌い、場を盛り上げるのが慣例でした。
歌には自信がありましたから、張り切ってヒット歌謡曲を披露していたのです。私が歌うと会場からも大きな拍手が湧きました。そのうち大スターからも「あの子にして」とご指名をいただくようになり、女優として入社したはずが、いつの間にか歌うことのほうが多くなっていったのです。
その状況を見て「あの子は女優より歌手のほうが向いている」と、役者さんやマネージャーさんたちが乗り気になってくださり、レコード会社に橋渡ししてくださったのですね。それがきっかけで歌手に転向することを決心し、ビクターにお世話になることになりました。
『島のブルース』歌い18歳で本物のアイドルに
ご存じの方もいると思いますが、17歳で念願の歌手としてデビューしたものの、記念すべきデビュー曲『ふられ上手にほれ上手』が「お色気ソング」のレッテルを貼られ、放送倫理規定に触れるという理由で放送禁止になってしまいました。
ところが不思議なもので、逆にそのことがスポーツ紙などで話題になり、レコードが売れ始め、東映のみなさんの応援もあって思わぬヒットにつながりました。
それでもテレビやラジオで歌えない私を会社が不憫だと思ったのでしょう。ちょうど世の中は「沖縄・奄美大島もの」が大ブームで、ビクターでは奄美民謡を基調とした『島のブルース』を用意し、人気絶頂の「マヒナスターズと松尾和子」に歌わせる予定でしたが、急きょ、この歌は三沢あけみに回そうと方針を変え、「三沢あけみとマヒナスターズ」でレコードを出すことになったのです。それが予想をはるかに超えるミリオンヒットとなり、世界が一変しました。
あれよあれよという間に忙しくなり、睡眠時間は1日平均3時間。テレビ・ラジオの出演、芸能紙の取材やグラビア撮影に追われて、本当に寝る暇もないぐらい大変でした。ついにはマルベル堂のブロマイド売り上げナンバーワンに。18歳で本物のアイドルになったのです。
でも、そうなるとまわりのガードも固くなり、自分の自由はまったくききません。1日のスケジュールはすべて決められ、楽屋のドアの前にはマネージャーが門番のようにはりついて、私は出番までじっとしているしかない。そんな息苦しい状態が続き、楽屋の窓から逃げ出したこともあります(笑)。もちろんお仕事をすっぽかしたりはしませんでしたが、今思えばそれが自分にできる精一杯の息抜きだったのでしょうね。
結婚・離婚を経験し歌手活動を再開
結婚は25歳のときです。相手は同じ25歳の後輩歌手。「前座歌手との結婚」に踏み切るには勇気が必要でした。亡くなった父が、生前「女は25歳までに嫁に行くこと。しかし、芸能人はよしなさい」と口癖のように言っていたからです。私も、もし結婚するなら「ごく普通の人」を望んでいました。
そのことを伝えると、「あなたと結婚するためなら歌手はきっぱりやめる」と言って本当にサラリーマンになり、その心に打たれて真剣なお付き合いが始まり、周囲の反対を押し切って結婚。
しかし、徐々にすれ違いが生じ、わずか数年で気持ちは離れていきました。「芸能人はすぐに離婚する」と思われたくなかった私は、変な意地があってその後もがんばり通しましたが、流産も経験し、考え抜いた末に離婚を決意。結局、結婚生活は8年で終わりました。
その間、依頼があればステージだけは出演していましたが、家庭優先で芸能活動はほぼしていなかったので、ファンのみなさんも三沢あけみはすでに引退したと思っていたのではないでしょうか。
離婚後、本格的に歌手活動を再開。『わかれ酒』という曲をいただきました。別れた年に『わかれ酒』とはなんとも皮肉な話ですが、作曲家の先生から「世の中には離婚して悲しい思いをしている女性がたくさんいるのだから、一緒になって暗く歌っちゃいけない。あえて明るく歌うことでみなさんを勇気づけられるし、そんなあけみちゃんをまた大勢の人が応援してくれるよ」と言われ、精神的にはつらい時期でしたが、とにかくニコニコして歌うことを心がけました。
これからは体力勝負と好奇心
BSは歌番組が多いせいか、最近はBSばかり出ていて「BSの女王」の異名も。その中のひとつが『三沢あけみのお茶会・歌謡界』です。往年の歌仲間がスタジオに遊びに来て、お茶を飲みながらいろいろ世間話をするという番組ですが、「実はあのとき…」というエピソードがポロポロ出てきて、ゲストの方々に今まで以上に親近感が持て、楽しくやらせていただいています。
元気だった昭和の歌謡界とは時代が変わり、こんな私ですが、盛り上げ役になれればと思いますし、お世話になった芸能界に何か貢献できればという思いで務めています。
プライベートでは若いころに謳歌できなかった青春を取り戻そうとがんばっているところです。といっても、自分で朝食の支度をしたり、気のおけないお友達と電車に乗って食事に出かけたり、時間通りに来ないバスを待ったり、いわゆる「普通」のこと。今さら情けない話ですが、好奇心旺盛な子どもと一緒で、家電を操作するのもドキドキ、ワクワク、それがすごく新鮮なの(笑)。
去年古希を迎え、これからも長く歌っていくためには体力も必要と、ジム通いも続けています。数年前はスキューバダイビングにはまって、オーストラリアまで行ったこともあるんですよ。体力勝負と好奇心で、ますますいろんなことに挑戦していきたいですね。
(ビクタースタジオにて取材)
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