Ms Wendy

2016年10月掲載

何もかも受け入れれば人生は必ずうまくいく

田口 ランディさん/作家

田口 ランディさん/作家
1959年生まれ。2000年『コンセント』で作家デビュー。01年『できればムカつかずに生きたい』で婦人公論文芸賞受賞。著書に小説『アンテナ』『モザイク』『富士山』『被爆のマリア』『キュア』『蝿男』、エッセイに『忘れないよ!ヴェトナム』『ひかりのあめふるしま屋久島』『神様はいますか?』『寄る辺なき時代の希望』『パピヨン』『生きなおすのにもってこいの日』など、著書多数。今年は女優業にも挑戦、年末の舞台『骨風』(原作・篠原勝之/脚色演出・山崎哲)に出演。12月8日〜18日まで、高田馬場ラビネストRABINESTにて上演予定。
みんなから一歩遅れた子どもだった

小さいころは、ちょっとボーッとした子どもでした。小学校に行くようになってからは、ハッと気がつくと自分のまわりから人が消えていることがよくありました。私以外のみんなは次の行動に移っているんです。自分は普通にしているつもりでしたが、みんなが何を合図に行動しているのかよく分からなくて寂しかった。物覚えも悪くて、特別支援学級に移ったらと言われたこともありました。

あるとき授業で、自分の名前の由来を親に聞いてきなさいという課題が出ました。私の本名は「けい子」。どうして私の名前はひらがななの?と母親に聞いたところ、私は難産で、出産のときホースのようなもので吸引され、頭が瓜みたいに長くて、医師に「もしかしたら障がいが残るかもしれないので覚悟してください」と言われたそうです。「それで難しい字はやめて、字画の少ないひらがなにしたのよ」と教えられて、びっくり。

ところが、小学5年生ぐらいのとき、突然、霧が晴れるようにはっきりしたんです。物事のつながりというか、因果関係がよく分かるようになって、それからいろんなことが面白くなり、意欲的になっていきました。

後に作家になり、産婦人科医に取材した際、その話をしたところ、吸引分娩で生まれた子にたまにある症状だと聞いて納得しました(笑)。

寺山修司さんと出会い人生観が変わった

中学生のころから寺山修司さんのファンで、一般公募した詩を寺山さんが編集した『あなたの詩集』というシリーズが出るたびに買っていました。その詩集には寺山さんの短文も載っていて、それがまたしびれるぐらいにうまくて憧れていました。

自分とたいして年の変わらない女の子の詩も多く、私も書いてみたのですが、全然下手で、実は一度も投稿したことはありません。その代わりに、ファンレターを何通も書きました。

17歳のとき、寺山さん本人からいきなり電話がかかってきました。「いつもお手紙ありがとう。お願いしたいことがあるので、今度の日曜日、新宿の京王プラザホテルに来てくれますか?」と言われて、頭が真っ白に。

当時、茨城県に住んでいたので、始発で向かい、ドキドキしながらロビーに行くと、そこにはあの寺山さんが。「じゃあ部屋に行こうか」と言われて、ついていくと、すでに5人ぐらい女の子がいて、車座になっていました。

当時の寺山さんは、若い女の子たちの才能を引き出すことに興味を持っていたみたいで、「今度、猫の本をつくるから」ということで、その場で企画を出し合いました。とても不思議な人でしたね。

その後も思い出したように電話がかかってきて、いろんなお手伝いをしました。あるときは、「15歳くらいの色白で細くてきれいな顔の少年をスカウトしてきて」と頼まれ、渋谷の中学校の門の前で張っていたこともあります(笑)。

寺山さんが持っている世界観、アンダーグラウンドのにおいがするポップカルチャーを肌で感じたくて、寺山さんからの連絡を彼氏からの電話みたいにいつも待っていました。

寺山さんとの出会いが私の人生に大きな影響を与えたことは間違いありません。「君はやればできるんだよ。人生は何をやってもいいんだよ!」って太鼓判を押してくれた感じ。あの経験がなかったら、何かをあきらめる人になっていたと思います。

上京して、いろんな仕事を経験した

高校を卒業したあと上京。寺山さんみたいにクリエイティブな生き方がしたい、ポップな文化の中に自分も入ってみたいという気持ちもありましたが、最大の目的は家を出ることでした。

うちは貧乏で「家に残って家計を助けてほしい」と言われていましたが、当時、父と母はケンカが絶えず、父はもともと酒乱で暴力もひどくて、私は家が嫌いだった。それで家出同然で田舎を飛び出してきたんです。

最初は新聞の専売所、次に英語教材の訪問販売、OL…他にもいろいろやりましたが、お金になったのはやっぱり水商売で、銀座のクラブに3年ぐらいいました。

そこには大手新聞社の方がよくいらしていました。私は素朴に、「将来、マスコミの仕事につきたいんですけど、どうしたらいいですか?」と相談したのですが、「この業界は完全な学歴社会。高卒で編集の仕事につこうと思ったら、小さな編集プロダクションに入って、ボロボロになるまでこき使われて終わり。そんなこと考えずに、エリート社員をつかまえて結婚したほうがいい」と諭され、逆に火がつきました(笑)。

そのとき23歳だった私は、この人の言っていることが真実だとしたら、世界はつまらなすぎる。寺山さんはそんなこと言っていなかった、大丈夫、やれるはずだと思って、「無理」と言われたことに挑戦したくなったんです。

それでエディタースクールに入学したところ、その学校の講師の方が「きみは学校より実践で学んだほうがいい」と広告代理店をバイト先として紹介してもらったことが、文章の世界に入るきっかけになりました。

敏腕プランナーに。結婚、独立を経て…

何と、バイトを始めて1年目には社員になり、主に企画編集を担当しました。代理店ではコンペに強かった。英語教材の訪問販売で培った根性のおかげ。人生にムダってありませんね。

その会社で夫も見つけ、結婚を機に独立。26歳のとき、友人とともに編集プロダクションを立ち上げました。バブルの追い風もあって社員もすぐに10人くらいになり、お金を稼ぐことが楽しくてしかたない時期でした。毎晩、六本木で飲んで、遊んで、働いて…。

でも、だんだんバブル崩壊の兆しが見えてきて広告の仕事が減り、このままでは立ち行かないと思っていたころ、ずっと引きこもり状態だった兄の家庭内暴力がひどくなって、しょっちゅう警察から電話がかかってくるようになりました。

兄とは何度か話し合って、私は「体の具合も悪くないのに何で働かないの?」「何が不満で家族といざこざを起こしているの?」と言うのですが、そのたびに兄は「お前は傲慢(ごうまん)だ。お前みたいに強い人間ばかりじゃないんだ」と。そのときの私は、誰でもやる気になればできるという思いがあったから、兄の気持ちが理解できなかった。お互いに平行線のまま、兄はその後、失踪してしまったのです。

兄の死が小説を書き始めるスイッチに

1995年に、兄は孤独死の状態で発見されました。そのときの所持金は十数円。ガス、水道、電気、すべて止められて、死後1、2カ月後に発見されるまで社会的なセーフティネットは何も機能していなかった。この国では働けないでお金がないと死ぬのだと、実感しました。

バブルでお金の使い方がマヒしていた私と引きこもりの末に衰弱死してしまった兄。兄はまるで負け組の見本みたい。じゃあ私って勝ち組なの?私が本当に望んでいた人生ってどんなものだったかしら? 疑問が次第に大きくなって、いったん仕事を休んでみようと思ったのがその2年後。

会社をやめた途端に妊娠し、38歳で高齢出産。人生が用意しているプレゼントってすごいです。妊娠期間、暇にまかせてメールマガジンを始めたことが小説家になるきっかけになりました。毎日配信するうちに購読者数が増え、10万人を超えたころ、出版社から「小説を書きませんか?」というお話がきて、兄をモデルにした処女作『コンセント』を書き始めることになったのです。

兄が亡くなって4年がたち、ようやく兄の孤独死を受け入れられるようになったとき、自分の内側から、表現したいという欲求が、抑えられないほど強く、激しく、湧き上がってくるのを感じました。

兄の写真に涙。本当の父の姿を見た

兄を追うように翌年に母が亡くなり、残った父の最期は私と夫と娘が看取りました。

飲んで暴れる父しか記憶にない私は父への怒りを抱えていました。兄が亡くなったときも、葬儀で酔いつぶれて兄の悪口を言ったり、兄の遺品をすべて捨ててしまったり、私が傷つくことばかりしていた父。今更分かり合うことができるとは思っていませんでした。

晩年、父は末期がんになり、治療のために入院した病院でアルコール依存症の禁断症状が。幻覚を見て、徘徊を繰り返すうちに認知症に移行し始め、私のこともよく分からなくなってきました。

母の顔を見たら何か思い出すかも、と家族の写真を持って病院へ行きました。写真には母と兄と私が並んでいました。「これ、誰だか分かる?」すると父は母ではなく兄の顔を指差してボロボロ泣き出したのです。どれほど兄の死に罪悪感を持っていたか。やっと垣間見た父の本音。そこから父との和解が始まりました。

何事も受け入れれば人生はうまくいく

同居していた夫の両親も看取って、今は夫と娘、それに書生さんの4人暮らしです。

去年、娘が大学を辞めて帰ってきたときは、「これは兄に間違った対応をしてきた私への最後のテストかもしれない」と思いました。すべてを受け入れなければ人生は苦しみに変わる。娘には「学費が浮いてありがたい!その分何をしてもよし」と言っています。

人生に起きるどんなことも意味がある。自分が心地よい方向へ進めば必ずうまくいく。だから楽しいと思うことをしていれば大丈夫。私は、それでうまくいってきた。自分の人生を信じれば、他人も信じられる。

家族で一緒に暮らす日々がありがたいです。仕事の合間に花の写真を撮ったり、絵を描いたり。小説の内容は暗いですが(笑)、私生活は明るい色に囲まれています。きれいな色を見るだけで元気が出るから。

今、一番燃えているのは女優業(笑)。寺山さんのファンだったころから演劇が大好き。56歳から俳優修業を始め、今年の12月に、劇作家・山崎哲さん演出の舞台に出演します。ご興味があればぜひ足をお運びくださいね。

(神奈川県・湯河原の仕事場にて取材)

  • 1歳。ダッコちゃんを抱いて

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  • 7歳。小学校の遠足にて

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  • 27歳。友人たちと編集プロダクションを設立したころ。右端が田口ランディさん

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  • 2003年アルタイ取材のとき

    2003年アルタイ取材のとき

  • 2001年婦人公論文芸賞受賞

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  • 縄文友の会会長として青森県小牧野遺跡でイベントを開催

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  • 作品づくりに凝っているコラージュ

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  • 田口 ランディさん

(無断転載禁ず)

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